2015年5月15日金曜日

道路

 昨夕は学科による新入生の歓迎会。上級生が、工夫を凝らし、ユーモアの溢れる企画を催してくれた。車での帰宅だが、中央環状線は夜間工事のため渋滞。夜間で空いているだろうと、第3京浜で横浜までいき、湾岸線に入って戻ってくることとした。横浜も大都会、横浜ベイブリッジあたりからみるみなとみらいの夜景も、レインボーブリッジからの都心の夜景に負けず劣らず見事なもの。湾岸線も工事で大井から先は渋滞、1号線に入り都心環状線を時計回りで走ってくる。

 慣れてきたとはいえ、首都高の走行はやはり怖いところがある。昨日も行きに危うく事故を起こしそうになった。 こういってはなんだが、合流のアプローチが短かったり、走行車線側に分岐があったり、道路の設計がそもそもよくないのではないか。それは一般道路にもいえることである。かつてドイツ滞在中、車(Opel Kadettというクラッチ板がすりきれてスピードの出ない車だった)を保有、運転してあちこちにでかけていた。その後、日本に帰って、日本で再び運転をしてみると、運転の怖いこと!幹線道路でも、脇道からの合流が次から次とある。2車線の道路の右側車線で、止まって、向こう側の店に入ろうとする車がある。冷や冷やの連続であった。振り返って、ドイツの道路がいかにうまくできていたかと感じ入った。ドイツ人は決して器用とはいえない。そんな彼らがスムーズに運転できるように道路が作られていると言うことである。へたくそなドライバー、注意散漫なドライバーでも、走行ができるように、「人間工学的」に考えて道路が作られているのではないだろうか。

 あってはならないことではあるが、交通事故は起こした人の責任、ということになっている。運転するものが注意すべきことになっている。それでも、事故は起こる。起こしたくなくても起こってしまう。そうした事故のうち、もしも、道路の構造が違っていたら、より運転しやすい道路であったり、見通しのよい交差点であったりしたら、起こらなかったであろう事故は実は多いのではないか。個人の責任をおいておいて、なんでもかんでもを行政や企業の非にすることは好ましくはないが、交通事故の加害者、被害者双方のことを考えると、「走りやすい道路」、「ストレスをあたえない道路」を作っていくことは意味があろう。もし、もう一度、大学で学べるとすれば、やりたいことはいろいろあるが、この道路づくりはそのうちのひとつである。

 

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