2015年6月4日木曜日

川崎エクスカーション(4)

 京急川崎駅から大師線に乗車する。列車は多摩川にほど近いところを東に進む。沿線には大小の集合住宅、大型店舗、やがて左手に工場、味の素である。鈴木町駅の出口、すなわち味の素の工場入り口には、工場見学のお誘い。今や流行の産業観光というわけである。我々は、次の川崎大師駅で下車する。京急はこの大師線を皮切りに路線を延ばしていった歴史を有しており、川崎大師駅前には、京急発祥の地を示すモニュメントがある。川崎大師駅を背にして、参道を東へ向かって歩く。広い参道にはところどころにくず餅やまんじゅうの店があるが、人もまばらで、門前町というには少し寂しい。肝心のお寺も前方にはみえない。やがて右手に寺の塀があらわれるが、入り口がない。塀に沿ってしばらく行ってようやく右手にむかう道があり、そこを折れて西に折り返すと仲見世通り、山門が顔を出す。仲見世には、飴を切る音、そして飴を売る声が響く。飴を売る店に加えて、くず餅やだるまを売る店が並ぶ。いかんせん土曜というのに、参詣の客も少なく賑わいに欠ける。山門をくぐり、境内に入る。本堂に加えて、五重塔などの建築物が広い境内に点在する。手水舎もあって、清める、って、はて、ここはお寺ではなかったか?神社ならではと思っていたが、寺にもあるのですな。本堂でお参りをしていると、隣で手をたたく音が、、、はて、ここはお宮さんか、、、。「神様、仏様」というように、日本人は、神様も仏様も区別せず同じように考えてきた。かつて、伊勢神宮にお参りした折に、隣で手を合わせていたおばあさんが、「ナムアミダブ、ナムアミダブ」と唱えていたことに驚いたものである。まさに日本人の宗教観を示している。

 川崎大師と言えば、「厄除け」、神奈川在住でもないのに、そういう認識があるのは、あちらこちらで、その宣伝を目にしていたからであろう。川崎大師と言えばまた、「初詣」。これもまた、宣伝を見たり聴いたりした記憶がある。なんでも、初詣が、氏神様など地元の地元の神社仏閣で行うものであったところに、電車で遠出して詣るようなスタイルは、この川崎大師が最初であるという(Wiki)。宗教施設によるマーケティングは、何も新しいものではなく、江戸時代にも行われていたようである。2年前に、三木一彦氏の近世三峰信仰に関する講演を聴く機会があった。御師によって関東一帯で信者獲得のための活動が行われており、江戸時代において既に今日と同じように、マーケティング、営業が行われていたようなものである、と思ったものである。川崎大師も、鉄道の敷設など時代の変化に対応したマーケティングを行いつつ、参詣客を維持してきたのであろう。

  川崎大師からの帰りは裏口からでて、格子状の区画をもつ戸建てが主の住宅地を駅へと進む。川崎大師駅から臨港バス「川23」川崎駅前行きバスに乗車、桜本で下車する。カラー煉瓦を敷き詰めた桜本商店街を西方に行く。スーパー、惣菜屋、衣料品店など個人商店が並ぶ近隣商店街。その中に、韓国食材店や、チマチョゴリのイラストを掲げた焼き肉店があり、街角にハングルで書かれたタウン誌が置かれている。このタウン誌「生活情報新聞ハント2015年5月号」は、新大久保の地図が掲載されるなど都内の情報が多く、この地域一帯のためだけの情報誌ではない。記事には、韓国との輸送業務や航空券の宣伝、あるいはまた、日本語教室、韓国語教室の宣伝があったりする。そしてまた不動産情報も載っている。これらはどのような人々を対象としたものだろう。いわゆるニューカマーと呼ばれる人々向けか?商店街を過ぎてしばらくして左に折れる。一直線の通りの入り口にはゲートがあり、KOREA TOWNと表示されている。川崎市観光協会のホームページには、「数多くの焼肉店や韓国食材店が並ぶコリアタウンは、地元ではセメント通りと呼ばれて愛されています。」とある。しかしながら、通りを歩いても、近年、更新されたと思しき2階建てないし3階建ての戸建住宅が並ぶだけで、一向に、韓国食材店も焼肉屋も現れない。これには学生らも拍子抜け。この通りの終わり、産業道路にでるところの両側に大きな焼肉店があった。

 産業道路は片側三車線で、その上には首都高横羽線が走る。土曜日にも関わらず、多くのトラック、乗用車が行き来する。京浜工業地帯の大動脈ならでは。産業道路に沿って西に向かう。産業道路沿い右手は、自動車修理工場やスクラップ工場など、中小の企業が並ぶ。その奥は住宅街である。一方、左手、道路の向こうは工場らしき大きな建物。歩道脇には缶やボトルなどのごみの散乱がみられる。
 鋼管通りで左に折れて浜川崎駅へと向かう。鋼管通は地名であり、日本鋼管(現JFEスチール)にちなむ。先の小川(2003)によると、日本鋼管は1912年に設立され、ここ川崎の臨海部、若尾新田において1914年に操業を開始したという。駅への道すがら、Thinkという看板を目にする。これだけでは何が何だかわからない。何でも、元々は、JFEスティールの研究開発拠点であった施設を、川崎市と提携して、川崎市第3のサイエンスパークとして、入居者を募っているところであるらしいThinkホームページ)。この臨海部においてもまた、研究開発の拠点がつくられているわけである。一方、近隣の大島新田では、1917年に浅野セメントが操業し始める。この浅野セメントの創始者、浅野総一郎は、1912年に鶴見埋立組合を創設し、1914年から沿岸の浅瀬の埋め立てを開始して、1928年までに約500haの新たな用地を得たとのことである。

 まさに工業地帯にいると思わせる雰囲気が漂うJR浜川崎駅から鶴見線にて、そうした埋め立て地のひとつ、扇町へと。週末でもあり、車内は閑散としている。少ない乗客らは、扇町駅に到着すると、カメラを取り出し、駅や車両や、そこにいる猫を撮り始める。かくいう私は、川崎ではなく横浜になるが、海芝浦駅へ行こうと提案したが、同行の学生のほとんどが既に行ったことがあり、「何しに行くんですか?」と即座に却下されたのであった!扇町駅前は、商店街もなく戸建てもほとんどなく、駐車場、空き地が目立つ殺風景な雰囲気。扇町は、埋立地ではあるが、運河で囲まれ島状になっている。そして、そこには昭和電工(元昭和肥料)や、JR東日本の発電所、三井埠頭といった港湾施設が立地している。週末ともあって人通り、車の往来もなく閑散としているが、平日は活気のある様をみることができるのだろうか。最近は、「工場萌え」とか言って、工場の風景を好み見に来る人らがいるという。また、企業側も生産などの現場を積極的に解放して見せようとする傾向にある。加えて、 産業の進展を支えてきた施設や道具を、産業遺産や近代化遺産として、保存し、かつ開放しようという動きもあり、川崎市でも産業遺産・散策マップを作り公開している。この扇町にもその対象がいくつもある。「工業」にこれまでとは180度異なる価値が見いだされたともいえるが、工業化の初期においては、煙を吐き出す工場は、進歩やダイナミズムの象徴であったわけで、実のところグルリと元に戻っただけのことかもしれない。

  三井埠頭から臨港バス・川22にて川崎駅前へと戻り、解散。数人にてチネチッタ通りに戻り、ビールを飲む。