2015年10月12日月曜日

軽井沢(2)

 追分宿を通り、御代田へ向かう。町の南、山の中腹にデベロッパーによって開発された別荘地がある。門があって、関係者しか入ることができない、いわゆるgated communityとなっている。以前にこのデベロッパーの方に話を聞いたことがある。別荘の購入はイメージされるような経営者や重役など一部富裕層だけではなく、今日、ごく普通の人も購入しているとのこと。別荘の利用も、週末や、夏季の間、あるいは定住と多様な形態をとっているという。別荘地の中で、テニスなどのサークルがあったり、バーベキュー大会や花火大会が開かれたりもする。一方で今日、別荘地の一部で、短期宿泊用の貸別荘が開設されているという現実がある。

 御代田から国道18号に入って、そのまま碓氷バイパスを下る。最後の目的地である安中榛名駅前に到着した頃には、あたりは既に暗くなっていた。新幹線安中榛名駅の開業を契機として、JR東日本が開発した「びゅうヴェルジェ安中榛名」と称する住宅地区であり、「定住型リゾートシティ」を標榜する。ここにおいて、かつてS大学のT君が、「安中榛名駅周辺における宅地開発の現状と住民の意識」(平成20年)という卒論を書いた。彼はポスティングによるアンケート調査を行って、非常によいサンプルをとることができたことに加えて、自由回答欄における記述をテキストマイニング・ツールを使って解析している。なかなかによくできた論文であった。真っ暗な中、街灯の下で、彼の卒論に基づき、回答者の4割が60歳以上、4分の1が50歳以上であり、夫婦のみが5割強を占めること、職業をみると、無職が36%、専門職・技術職が20%、管理職が15%と上位3位をなしていることを話す。定年後の移住者が多く、また、有職者においては、専門職、管理職が多いという興味深い結果である。彼らは、東京や埼玉など首都圏から主として移住してきており、その転居理由は、第一に、「周囲の自然環境の良さ」(77%)、「新幹線の駅が隣接しているから」(62%)、「ゆったりとした生活ができるから」(41%)、「東京からあまり離れていないから」(32%)と続く。自然の中におけるスローな暮らしを求める一方で、東京とのアクセスもまた重要なのである。まだまだ興味深い結果があるのだが、暗闇の住宅地を怪しく回って駅に戻る。彼ら2人には、安中榛名駅から新幹線で東京へ向かってもらう。一人、高崎駅東口までレンタカーを運転し、営業所で返却。駅ビルのフードコートのM製麺にて夕食をとり、新幹線に乗り込む、、、




 



 

 

2015年10月11日日曜日

軽井沢(1)

イギリスL大P氏、S大I氏とともに軽井沢エクスカーション。軽井沢は久しぶり。P氏は、ルーラル・ジェントリフィケーションをテーマとして精力的に仕事をしており、現在、日本のルーラル・ジェントリフィケーションの実態や研究を探索するためにS大に滞在中。私自身もルーラル・ジェントリフィケーションをテーマとし、かつ軽井沢をフィールドとし、また、4年前にイギリスに行ったときにお世話になったこともあって、今回、軽井沢を案内することとなったわけである。

大宮駅から新幹線。連休の中日だが、むろん座れない。デッキに立って10時過ぎに軽井沢着。中高年の女性を中心として多くの乗客が軽井沢で降りる。新幹線、そして高速道路によって、もはや首都圏からの日帰り観光地となっている。改札口で、P氏、I氏とおちあい、日帰り客の目的地のひとつである南口のアウトレットをのぞく。北口駅前でレンタカーを借りて、旧軽へ。旧軽銀座、森ノ美術館裏手の駐車場に車を停める。近くには、軽井沢で日本人初の別荘。海軍大佐八田裕二郎によるもの。駅から旧軽へと続く道は大勢の人が歩く。フランス語名のケーキ屋や、ドイツ語名のソーセージ屋、、、P氏は笑いながら写真を撮る。夏のピークの時ほどではないが、人でごった返している。江戸時代には、江戸と京を結ぶ中仙道が整備され、軽井沢はその宿場町であったこと、明治になっていわゆるお雇い外国人が多数、日本にやってきたが、彼らにとって蒸し暑い東京の夏は耐えがたく、ここ高原の軽井沢を避暑地にしたこと、彼ら外国人が来ることで、宿場町の人々が旅館をホテルにしたり、パンやジャムなど彼らの嗜好に合った商品を売る店を始めたこと、、、などなど例によって怪しい英語で説明しながら、宿場のはずれ、ショーハウスへ。軽井沢で最初に別荘を建てたカナダ人がショーであった。元来、街道沿いにあった場所から奥まったところに、彼の別荘を再現したものものである。帰りは、南の横道に入り、軽井沢テニス倶楽部のコートの脇を通って駐車場に戻る。

このテニスコートで、現在の天皇陛下が皇太子時代、現在の皇后様と出会われ、そしてご結婚された。ということで、軽井沢に大いに脚光が浴び、多くの観光客が訪れるようになった。これが軽井沢の大衆観光化の始まりといわれる。次いで、1980年代後半のバブル経済期、いわゆるリゾート法の制定もあいまって、開発の波は軽井沢にも及び、リゾートマンションの建設など観光開発が進展する。そして、1998年の長野オリンピックを睨んだ上信越自動車道と北陸新幹線の開設によって首都圏とのアクセスが格段に向上したことで、さらなる観光の進展をみた。

 さて、再び車に乗って、愛宕山の西麓、最も早くに別荘開発が進んだ地区に出向く。別荘一戸当たりの敷地も広く、瀟洒な、そして豪華な建物も多い。更新も進んでいて、現代的な建築もみられる。写真を撮りつつ、重文の旧三笠ホテルまでいって引き返し、中軽井沢に向かう。途中、これでもかというくらいのフランス料理やイタリア料理のレストランを目にし、スーパーTSURUYAやセブンイレブンに入って品揃えのよさをみてもらう。ちなみにセブンイレブンで7,8千円のワインをおいているのは軽井沢をおいてないのではなかろうか。軽井沢では、東京と同等の消費生活が可能なのである。星野リゾート、ホテルブレストンコートを経て、千ヶ滝地区に向かう。ここは、大正期より今日まで、西武グループによって別荘開発が進められたところであり、その規模の大きさにP氏も驚いている。東京を控えているだからこそですよ、と応える。販売・管理事務所の方によると、この地区で、200人程度の人が定住してるそうである。今売り出し中のところは、この地区の西、森に囲まれた別荘という従来の軽井沢のイメージとは違った開放的な別荘地、人気も上々とのこと。買えるわけでもないのにパンフレットをもらう。



我々はさらに西へ、追分へと車を走らせる。追分は中仙道と北国街道の分岐に位置した宿場町。実は軽井沢よりも大きな宿場町であった。ここに友人が別荘をもち、ちょうどこの週末に来ているというのでアポをとっており、訪れる。初の訪問だが、周辺の環境も建物の内外の様子もなかなかによい。コーヒーとお手製ケーキをご馳走になりつつ、別荘購入の経緯や別荘の使い方などP氏に説明してもらう。

軽井沢は、霧が多い。つまり湿気が多い。苔むした地に別荘が建つ風景は軽井沢ならでは、である。軽井沢から西へ、この追分、そして御代田へと行くに従って、より乾燥してくる。軽井沢の湿気を嫌う人は、この軽井沢の西の地区にやってくることになる。加えて、観光シーズン期の軽井沢の街中の渋滞はものすごいもので、そうした喧噪を嫌い、静かな環境を求める人らが、このあたりにやってくるわけである。「やってくる」というのは、別荘を買って一時的に訪れることとともに、定住することも意味する。

2015年10月9日金曜日

落語

 我々の世代の若かりし頃、ドライブと言えば、ユーミンとか稲垣とかが定番(人によってはオフコース。オフコースなんていい年をしてめめしい、と思っていたが、いい年をしてあんな風にジタバタするのが人生なのだと、いい年になって思う。)。そして今、いい年になって車に乗って聴いているのが落語である。
  落語と言えばまず笑い、滑稽話であろう。かつて読んだ井上ひさしの「ブラウン監獄の四季」。彼が、NHKの仕事をしていたころのエピソードを綴ったエッセーで、クスッと笑ってしまう、とても面白い本である。この本の中に、今で言う「お笑い」の台本を作る中で、どうしたら笑ってもらえるか悶々と考えたという話がある。それによると、笑いを誘うひとつに「なぞりと失敗」があるという。ある人が何かをやる。それをまねして他の誰かが同じことをやってみるが、そこで失敗する、、、ここに笑いが生まれる。ドリフターズを例に出していて、ドリフのメンバーが同じことを次々やっていく中で、一人が違うことをしたり、失敗したりすることで、どっと沸くことになる。
  落語の笑いの多くも実はこれである。ご隠居に教えられたように熊さんがやって失敗する、という話。よく知られた「時そば」がまさにこれに当たる。「お化け長屋」は、同じ物言いに対して、異なる人が異なる反応をする話であり、同じ質の笑いである。
 加えて、「コミュニケーション・ギャップ 」。「百川」や「金明竹」などがこれに当たる。方言を十分理解できずに違う意味で捉えて、間違いが起きるわけである。漫才においても、ぼけとつっこみがつくる同じようなコミュニケーションのズレが笑いを誘うといえる。
 「なぞりと失敗」であれ「コミュニケーション・ギャップ」であれ、調和的に整然と進行するはずの行動や会話において生じるズレが笑いを誘う。このことは洋の東西、時代を問わず同じではなかろうか。落語は、普遍的な笑いを提供してきたといえるだろう。したがって、落語を、たとえば英語に訳したとして、英語圏の人々に笑いをもたらすことができる。(はて現在の日本のテレビの「お笑い」はそんな普遍性を有しているだろうか?)
  一方で、人情ものの落語はまた、人の生き方の手本、道徳、倫理もまた伝えてきたといえよう。「井戸の茶碗」のように正直、実直であることや、「芝浜」にみられるまじめに働くことの大切さ、「文七元結」における自分の身を削っての人助け、、、江戸時代に成立したとされる落語は、当時において良しとされる生き様、価値観を反映し、かつそれを人々に伝え広めてきたともいえる。今日においても落語の人情話を聞いて共感できるのは、当時の人々と同様の価値観を共有しているからであろう。そしてそれは、日本固有のものであろうか、あるいは普遍的なものであろうか?
 明日は出勤日。さて、何を聴いて参ろうか、、、