2016年7月16日土曜日

2つの名前を持つ街

 今週末からベルギーのリェージュで開催される学会に参加するため、昨晩、リェージュに入る。国際地理学連合の本大会は4年に一度、地域会議はその間の年に開催されるが、それぞれの分野ごとに委員会があり、独自で会議を企画・開催している。私が参加するのは、Commission of the Sustainability of Rural Systems持続的農村システム委員会の会議で、農村に関心を持つ地理学者が集まってくる。研究発表の会に加えて、開催地周辺の農村を巡るエクスカーションが実施されるのもありがたい。
 今回、成田からヘルシンキ乗換で、ブリュッセル空港に到着した。空港ロビーは、銃を持つ兵士が巡回しているが、カフェでゆったりお茶を飲む人々らからは、平常そのものの雰囲気を感じる。
 ブリュッセル空港の地下に鉄道駅があり、そこからリエージュを目指す。あらかじめベルギー国鉄のサイトで切符を買うこともできたのだが、買い忘れて窓口にて購入する。ウィークエンドは安くなり、リェージュまで18.8ユーロ。もたもたしていて当初乗ろうとした列車に乗れず、時間が空く。再び、到着ロビーに戻り、携帯ショップにてベルギーのsimを購入する。1ヶ月の間、ネットを2.5GB、通話を10分できて15ユーロであり、リーズナブルな価格と言える。早速にsimフリーの携帯に差し込み、ベルギー国鉄の時刻表の確認やグーグル・マップで位置の確認をする。
 空港からリェージュまで直行する列車はなく、ルーバンという駅で乗り換えをしなくてはいけない。ルーバンで降りて、電光掲示板にて乗り換える列車の番線を探す。が、リェージュなる行き先はどこにも表示されていない!とりあえずは、ベルギー国鉄のホームページで記載されていた番線に行き、ホームの係員にたずねて、この番線でよいか確かめ、入線した列車に乗り込む。
 ベルギーは多言語国家、公式の言語境界線が引かれており、北ではオランダ語、南ではフランス語が優先される。ルーバンはオランダ語圏に位置し、地名もまたオランダ語表記をしており、フランス語圏のリェージュLiègeをオランダ語のLuikと表記していたのであった。リェージュLiègeをいくら探しても見つからないわけである。地元の人々には当然かもしれないが、旅行者には不便極まりない。多くの場合、こうした言語境界地帯においては、両言語併記とされるのが一般的であり、一方の言語しか提示されないのは珍しい。ベルギーにおける両言語の複雑な関係を物語っているとも言える。
 地名は、この地表面上のある特定の場所の位置を示すシステムの一つである。そして、この位置を示す地名の体系は、この地表面上のどこに立つか、そしてどの言語を用いるかによって異なる。日本にいて日本語で示す地名の体系と、ドイツにいてドイツ語で表す地名の体系とは違うのである。ヨーロッパの中においても、それぞれの国毎に地名の体系は異なっており、一つの国の中でも、異なる言語ごとに地名は異なることになる。
 ドイツにいたとき、駅に行って列車の行き先の看板をみて戸惑ったものである。Genfゲンフ行き、Mailandマイラント行き、っていったいどこに行くのだろう?前者はジュネーブ、後者はミラノであり、それぞれドイツ語による地名である。Pressburgはどうだった?と聞かれて、はて?と聞き直し、ブラチスラバBlatislavaのドイツ語名と知る。日本の学校教育においては、現地の読みに近いカタカナ表記をすることになっているようだが、カタカタ化し日本語風の発音をすることで、日本、そして日本語独自の地名の体系となるわけである。
 現在、日本の大学では、「グローバル化の推進」とやらで、とりわけ英語の修得を学生に求めている。その際、現地読みで覚えてきた地名を、今一度、英語で覚え直さなくてはならないこととなる。これまでドナウDonau川と習ってきたが、それでは英語圏では通じず、英語ではDanubeダニューブ川である。ドイツのバイエルンBayernは、英語では、ババリアBavariaであり、ミュンヘンMunchenは、ミューニックMunich。英語を学ぶと言うことは、英語による世界像、英語が散りばめられた世界地図を頭に描くことができるようになることでもあろう。
 


2016年6月20日月曜日

ジャパン・ネット

 先日、日本野鳥の会の方の訪問を受けた。ホームページにて、私が鳥猟について調べていることをお知りになり、関心を持たれてのことである。わざわざ来ていただいた上に、興味深いお話を聞くことができ、そしてまた、貴重な資料を見せていただけ、かつ今後も情報を提供していただけるとの由、ありがたいことである。早くまとめて成果をだしたいものである。

  その折に話題になったのが、海外における鳥猟である。実はヨーロッパでも伝統的に鳥猟が行われてきた。他の仕事でドイツやオーストリアにでかけた合間、ついでに資料を集めてきている。ヨーロッパにおいても、また、アジアにおいても日本と同じように鳥猟が禁止された後も、鳥猟が行われてきた。例えば、1979年、現EUにおいては禁止されたが、イタリア北部(ロンバルディア、エミリアロマーニャ)においては、伝統的な生業として例外的に認められてきたという。総延長約27kmの網でもって、年間4000羽(ヒバリ、ツグミ、アトリ)までのがなされてきた。それが、2014年12月2日をもって、残存していた92カ所の場が禁止となった。同年11月には、EUがイタリア政府に対して、禁止しない場合は、数百万ユーロに及ぶ罰金を課すと警告していたという(http://www.presseportal.de/pm/7154/2895923)

 野鳥の会の方によれば、海外の鳥猟で今日用いられるのが、日本から輸出されるカスミ網だという。日本では、鳥獣保護法によりカスミ網の利用はむろん、販売、所持が禁止されている。だが、闇で製造され流通しているらしい。

 さて、以下のWeltというドイツの新聞のネット版をみていただきたい。( http://www.welt.de/wissenschaft/umwelt/article115488262/Die-700-Kilometer-lange-Todesfalle-am-Mittelmeer.html 2013年4月22日)「地中海沿いの700kmに渡る死の罠」という見出しの記事で、海岸沿いに延々と続く網の写真が掲載されている。この写真を皮切りに、網にかかった小鳥や、小鳥を調理する人々の写真が続く。
 

 同記事によると、ガザ地区からリビアとの国境に至るエジプトの海岸において700kmに渡って5mの高さの網が張られ、ドイツなどヨーロッパから南の越冬地へと、また南からヨーロッパへと向かう渡り鳥が年間1千万羽近くも捕獲されているという。

 この地の鳥猟を調査してきた生物学者Holger Schulz氏へのインタビューによると、ドイツにおいて野鳥が減少してきたのは、イタリア北部における鳥猟が原因と考えられてきたが、そうではなく、どうもこのエジプトにおける鳥猟によるものらしい。夜間、地中海を渡ってきた鳥たちは、早朝、疲れて切ってエジプトの海岸に到達する。鳥は、サハラを横切る前に休息を必要とし、海岸で最初に見つけた緑に向かって下降する。そこに網が張られており、一網打尽というわけである。

鳥は珍味として食されており、マーケットでは、それなりの値段で売られている。ウズラや鳩は1羽5ユーロ、ヒバリやナイチンゲールは、2ユーロから3ユーロである。Rasheedという町のあるマーケットでは、とある一日で、1万羽に及ぶ小鳥、3千羽のウズラが売られていたという。エジプトでは、ファラオ-の時代から鳥猟が行われてきたが、今日ほど鳥猟が商業的に行われている時代はないとのこと。そしてまた、エジプトにおいて鳥猟は違法ではない。

 この記事では、こうしたエジプトにおいて鳥猟に用いられる網を"Japan-Netzen"ジャパン・ネットとして紹介されている。日本で違法に製造され輸出された網が用いられているわけであり、この網が日本からもたらされていることが広く認知されていることになる。日本の技術が、世界の人々や自然の動植物の安寧に役立つとすればうれしい限りだが、過度な鳥猟を助長し、鳥類の減少、ひいては生態系の破壊をもたらしているとすれば残念なことである。そしてまた、ジャパン・ネットとして世界に流通していることも不名誉極まりない。


 

2016年5月20日金曜日

チェーン店度:ドイツの商店街はどこも同じ?

 折に触れてドイツの街を訪れていると、その変化に気づかされる。あそこにあった模型を売るお店がなくなったり、伝統的な什器を売るお店が、モダンなデザインの食器を売るお店に変わったり、、、地場のお店がどんどん消え去り、代わって、ベネトンやらH&Mといったブランド店が、スタバやハードロックカフェといった飲食店が増えてくる。10万人規模の都市であれば、街並み、そして建築物は異なっていても、商店街に並ぶお店は金太郎飴のようにどこも同じ、という状況になりつつあるのではないか、、、
 昨年度、こうした問題意識から、M君が「ドイツ・ハイデルベルグにおける中心商業地の変容」という卒業論文を書いた。ドイツの各都市におけるチェーン店の立地状況を都市の人口規模毎に把握した上で、ハイデルベルクの中心商業地であるHauptstraßeの店舗構成をチェーン店の進出に注目し、現地調査によって明らかにしようとした力作である。
 チェーン店の進出は、ハイデルベルクにとどまらない。こうしたチェーン店の進出の度合いを、ドイツでは、Filialisierungsgrad「チェーン店度」という指標で示すことが行われている。Der Handel商業という雑誌のネット版(2011.05.18 https://www.derhandel.de/news/unternehmen/pages/Filialisten-Filialisten-draengen-in-die-Innenstaedte-7444.html)に、チェーン店がますます中心部に進出していると報じられている。
 以下が、この記事に掲載されているドイツ各主要都市におけるチェーン店度である。軒並み5割を越え、ドルトムントが74.6%と最も高い値を示しており、4分の3がもはやチェーン店となっている。この記事によると、2006年の時点からもっとも大きな変化を示したのがフランクフルトであり、2006年の50.9%から16.3ポイント増えている。フランクフルトでは、この間、ZARAやMiuMiu(Pradaの別ブランド)といったブランド店がドイツで初めて進出したという。このフランクフルトを含め、国際的なチェーン店の比率が高いのは、デュッセルドルフ、ベルリン、ハンブルクといった商業の中心としてよく知られる大都市である。


2008年の人口 国際的チェーン店 ドイツのチェーン店 地域のチェーン店 地元の店 チェーン店度2010年
Berlin 3,431,675 51,9% 13,4% 4,2% 30,5% 69,5%
Hamburg 1,772,100 47,3% 15,3% 3,4% 34,0% 66,0%
München 1,326,807 33,9% 12,7% 7,1% 46,3% 53,7%
Köln 995,420 41,4% 12,2% 6,3% 40,1% 59,9%
Frankfurt/Main 664,838 47,0% 17,7% 2,6% 32,7% 67,2%
Stuttgart 600,068 38,6% 18,0% 3,3% 40,1% 59,8%
Dortmund 584,412 43,5% 29,0% 2,2% 25,3% 74,6%
Düsseldorf 584,217 53,3% 13,1% 2,6% 31,0% 69,0%
Essen 579,759 36,1% 29,3% 2,7% 31,9% 68,0%
Bremen 547,360 41,3% 27,3% 3,5% 27,9% 72,0%
Hannover 519,619 36,2% 22,7% 5,4% 35,7% 64,3%
Leipzig 515,469 31,8% 20,1% 2,8% 45,3% 54,7%
Dresden 512,234 45,7% 21,7% 1,1% 31,5% 68,5%
Nürnberg 503,638 46,0% 20,9% 3,4% 29,7% 70,3%
Duisburg 494,048 28,1% 20,2% 7,0% 44,7% 55,3%

  興味深いことは、ミュンヘンにおいて、チェーン店度が53.7%と低く、かつ国際的チェーン店の比率も低いことである。この記事によると、ミュンヘンは特殊なケースという。ミュンヘンの旧市街は、多様な商店が立地するだけの十分なスペースがあるとともに、それらに対する高いニーズがある。したがって、国際的なチェーン店だけではなく、伝統的な家族経営の商店も成立しうるとのことである。
 はて日本において、ドイツと同じように「チェーン店度」で各都市を評価してみたら、どうだろうか?
  
 

2016年5月2日月曜日

社会主義都市、その後(1):クラクフ

 1990年代、ベルリンの壁の崩壊、そしてドイツ統一を追って、東ヨーロッパの旧社会主義国が政治経済の改革を推し進めていった。この改革を通して、第2次大戦後の社会主義時代に形成された都市や農村の特色がどのように変容Transformationしてきたのか、かっこうの研究テーマを与えてくれた。私も、プラハの街(市場経済化の進展に伴うプラハの都市構造の変化.地域研究 44:25-38.)や、ハンガリー南部の農村ハンガリー南部農村における農業生産協同組合の再編と個人農の動向.小林浩二・大関泰宏編著『拡大EUとニューリージョン』原書房,222-235.)でそうした変化を垣間見る機会をえた。大きな変革の時期を経た現在、 旧社会主義国の都市や農村は、あれからどう変わったのか、そして現在、どのような状況にあるのか、興味深い。

 2014年の夏、ポーランドのクラクフで開催された国際地理学会に参加した。クラクフはポーランド南部に位置し、1596年にワルシャワへ都が移されるまで、ポーランド王国の都が置かれた古都である。現在の人口は約76万、ワルシャワに次ぐポーランド第2位の都市であり、かつ科学技術の中心ともなっている(ちなみに、アルプス以北のヨーロッパでプラハに続いて2番目に大学が設置された街でもある。ドイツ語版Wiki)。そして、その旧市街は世界遺産にも登録されている。ちなみに、この街を最初に訪れたのは1996年のことであった。

旧市街の広場。向こうの建物が織物会館。

 2014年、クラクフの旧市街におけるメイン・ストリートや広場は多くの観光客で賑わっていた。メイン・ストリートには商店が並ぶが、それらの多くは、観光客向けの土産物屋か、ヨーロッパや世界に展開するチェーン店の支店である。ドイツやフランスなど、ヨーロッパ西部の古い町であれば減ったとはいえ存在する、入るのがためらわれるような、地場資本の重厚な衣料品店や装飾店などはない。こういっては失礼だが、旧市街の風格のある町並みに比して、そこにあるお店はどこにでもある軽いものである。経済の停滞していた社会主義時代において、いわゆる中産階級、あるいは富裕層が形成されず、彼ら向けの商店も欠落していた中で、改革以降、観光客の増大に対応して、観光客を主として相手にするような商店が中心部に進出してきたといえよう。

クラクフのメイン・ストリート
おなじみマクドナルド

ドイツ資本のドラッグストア。ドイツではどの街にもある。
旧市街にチェーン店をはじめとして商店が立地してきたとはいえ、その量も質も思ったほどではない。一方で、旧市街の外で、大型のショッピングセンターが開設されている。下の一枚目の写真は、旧市街の北東部に位置するクラクフ駅に隣接したショッピングセンターである。C&Aやカルフールなどいくつかのデパートやスーパー、SATURNといった電気製品の店に加えて、多くの小売店が入っている。そこでは旧市街に見られないような世界レベルの有名ブランドが軒を構える。また、郊外においても2枚目の写真のように巨大なショッピングセンターがいくつもある。衣料品にせよ装飾品にせよ、値の張る質の高いものは、旧市街ではなく、こうしたショッピングセンターで売買されているのではないか。この点において、ヨーロッパ西部の都市とは異なろう。

クラクフ中央駅。巨大なショッピング・センターを併設。手前が旧市街方向。駅の向こう側には、バス・ターミナルが設けられている。こうしたプランは西ヨーロッパと同じ。
旧市街から東方、Nowa Huta(「新製鉄所」という意味の街の名。この街に関しては次回)に向かう幹線道路沿いのショッピングセンター。この道路に沿って、他にもショッピングセンターがあり、また、オフィスビルの立地もみられる。

 もう一つ、ヨーロッパ西部の都市とは依然として異なる点があることに気がついた。それは、ある日、一人で夕食をとりにホテルから街に繰り出したときのことである。
  クラクフの旧市街を取り囲んでいた都市壁の一部が残り、今日、その外周を緑地帯と環状道路が走る。私は、この環状道路のすぐ外側に位置する米系チェーン・ホテルに部屋をとっていた(なぜこのホテルか?「ホテルの選択」についてはまた後日)。旧市街へ向かえば、観光客向けのレストランや飲み屋がある。が、それなりに値も張るし、一人ではつまらない。そこで、反対方向、新市街の方向へ歩いて行ってみた。地元の人が使う気軽なレストランを探してのことである。通常であれば(西ヨーロッパであれば!)、新しく形成された市街地の交通の結節点、すなわち、大きな交差点があって、バスや路面電車の乗り換え地点となっているようなところでは、スーパーやちょっとした店舗があって、レストランも数軒ある、はずである。ところが、周囲は住宅地であり、近隣のニーズに合わせて立地しているはずのものがなく、そうしたいわば小中心の形成は弱く、レストランもない。

  たまたま、訪れた旧市街から東の方向に店がなかっただけのことかもしれない。旧市街やショッピングセンターのレストランへ皆でかけるのかもしれない。が、居住者の所得水準からくる消費性向によるものとも考えられる。西ヨーロッパであれば、都心部に近い地区では、それなりに豊かな人々が居住しており、彼ら向けのレストランが成立しうる。しかし、クラクフでは、失礼な物言いかもしれないが、そうした層が同じような場所に住んでいない、あるいはそうした層がまだ厚くない、ともみてとれる。

 都市内部において、どこにどんな社会階層の人々が居住しているのか、そしてそれを背景として、どこにどんな商業・サービスの立地がみられるのか、「都市構造」とか都市の「商業構造」や「社会構造」(「構造」という言葉が地理学では安易に使われすぎている、という気がする。地理学で用いられる「構造」は二重の意味がある!)とか呼ばれるものが西ヨーロッパとは異なると思われるのである。
 



2016年4月22日金曜日

ドイツ周辺の地震

 熊本の地震が一向に終息しない。亡くなられた方々にお悔やみ申し上げるとともに、被災され、避難を余儀なくされている方々にお見舞いを申し上げます。

 熊本近くに住む人によると、ずっと揺れが続くので、船酔いをしているかのような気分の悪さだという。安定した大地があってはじめて安寧もあろう。この点、ヨーロッパは安定しており地震もないといわれる。が、実は時折、地震が起こる。ドイツ連邦経済・エネルギー省のホームページ(http://www.bgr.bund.de/DE/Themen/Erdbeben-Gefaehrdungsanalysen/Seismologie/Seismologie/Erdbebenauswertung/Erdbebenkataloge/historische_Kataloge/BILD_germany_epic.html;jsessionid=3015E760CD05526E1332675790016C33.1_cid331?nn=1544984)に、西暦800年から2008年にかけて、ドイツとその周辺において発生した地震を強度別に地図に示すとともに(左図)、被害をもたらした地震を地図化している(右図)。この図をみるとケルンあたりからライン川に沿ってバーゼル周辺まで、シュトットガルト南のシュヴェービッシェ・アルプ周辺、ライプチッヒ南のゲラ周辺あたりで地震の発生が多い。合わせて、バーゼルから東へ、インスブルックを経てウィーンに至る帯状の地域でも地震がみられる。プレートテクトニクス理論によると、アフリカプレートとユーラシアプレートの境界が地中海を東西に走り、その北側にアルプスがやはり東西に延びる。アフリカプレートがユーラシアプレートに沈み込む動きからアルプスが形成されたのか、アフリカプレートとユーラシアプレートが衝突してアルプスが形成されたのか、よくわからない!が、いずれにしても、この図の南、イタリアでは地震が比較的多く、この図でもアルプスに沿って地震帯が存在する。アルプスの北においても、ライン地溝帯など構造線(断層帯)で地震が発生するようである。

 この地図では、地震の強度が示されているが、日本の震度とは異なり、ヨーロッパ地震強度EMS-92が用いられている。EMS-92は、人間の感じ方と建物の被害の状況に応じて、強度をⅠからⅫまで12段階に分けている。Ⅰは感じられない、Ⅴは、「強い」で、建物が揺れて、寝ている場合に起こされる。Ⅻは、ほとんどの建物が崩壊する壊滅的状況となる。右図は、強度Ⅵ(建物に軽い被害)以上の地震が示されているが、ケルンの西、フランクフルトからバーゼルにかけてのライン川流域、そしてウィーンやインスブルック周辺でもそれなりに地震の被害が過去にあったことがみてとれる。


  こうした過去における地震の発生状況をもとにして、ドイツ、オーストリア、スイスにおける地震の危険マップが作成されている( http://www.gfz-potsdam.de/sektion/erdbebengefaehrdung-und-spannungsfeld/projekte/bisherige-projekte/seismische-gefaehrdungsabschaetzung/d-a-ch/)。この図が掲載されているサイトは、ポツダムにあるドイツ地球研究センターのものだが、原図は、Grünthal, G., Mayer-Rosa, D., Lenhardt, W. (1998) Abschätzung der Erdbebengefährdung für die D-A-CH-Staaten - Deutschland, Österreich, Schweiz. Bautechnik 75(10), 753-767.にあり、作成方法が示されている。この地震危険マップには、先のⅠからⅫまでの地震強度に基づき、どこでどの程度の規模の地震が起きうるか示されている。ちなみに、この地図における数値は、50年間における90%の非超過確率で示されており、50年の間にこの値を越える地震が起きる確率が10%であるということである(私の理解が正しければ)。危険度が高いのは、当然だが、先に示したこれまで地震が生じてきたところである。

 オーストリア、チロルのインスブルックでもたびたび地震に見舞われてきた。したがって、下の写真に見られるように、 建物の柱の下部を前にせり出して補強をするなど、地震に備えてきた。日本で、いつどこで地震が起こってもおかしくないといえるが、ヨーロッパでも同じかもしれない、、、

インスブルックの旧市街。左の建物の隅の柱、右の向こう二番目の建物の柱、それぞれが通りにせり出している。


2016年4月13日水曜日

ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」(1)

 ライブニッツ地誌研究所IfLは、ライプチッヒにあるドイツで唯一の大学外の地理学研究機関である。現在、75名が従事し、年間予算は430万ユーロにのぼる。

 この研究所の起源は1896年にまで遡る。当初は、ライプチッヒ民俗博物館が、地質学者Alphons Stübel のコレクションを展示していたが、1907年に地誌学博物館として独立し、1930年代以降は研究にも従事した。第2次大戦後、1950年から、 Edgar Lehmannの指導の下で、ドイツ地誌研究所として旧東ドイツの中心的な地理学研究機関となる。1976年以降、科学アカデミーの中における、地理学・ 地生態学研究所IGGとなっていく。

 IGGの解体後、1992年に現在のかたちの地誌学研究所が設立される。ちょうどその年、この研究所を始めて訪れた時には、まだライプチッヒ博物館の中にあった。書庫も見せてもらったが、それまで見たこともない古書、地図類がところせましと並んでいた。1996年にライプチッヒ郊外の現在の場所に研究所は移転した。2003年にLeibniz-Institut für Länderkundeと改称する。ライプニッツLeibnizは、かの著名な数学者にして哲学者、研究所の位置するライプチッヒの出身である。

 この研究所は、今日、ドイツにおける地誌学研究の中心として、Beiträge zur Regionalen Geographie、Europa Regionalなどをはじめとする各種刊行物を発行している。

  さて、この地誌研究所のホームページhttp://www.ifl-leipzig.de/en.htmlの右に、「今月の地図」として、特定のトピックに関する主題図が掲載されており、定期的に入れ替わる。現在トップにある主題図は、ドイツのワイン生産に関するものである(http://aktuell.nationalatlas.de/wein-2_03-2016-0-html/)。

 なんでもEUでは、2016年からワイン用ブドウ栽培の認可制度を変更したとのことである。これまで、ワイン用ブドウは生産過剰の状態にあり、生産面積の拡大は認められなかったが、加盟国は、年間1%までの栽培面積の拡大ができるようになった.背景には、ワインの世界市場の変化、とりわけ、ヨーロッパ以外においてワイン需要が拡大し、ヨーロッパにとって新たな輸出のチャンスが増えたことがある。

 この地図をみると、ドイツにおけるワイン生産地帯(13の原産地認定ワイン生産地域がある)は、ドイツ南西部に集中している。なかでも、ライン川とその支流(モーゼル川やマイン川など)流域が主要な生産地域で、これらを含むラインラント・プファルツ州とバーデン・ビュルッテンベルク州でドイツワイン生産の9割近くを占めている。

 ドイツと言えば白ワインである(地図の凡例のWeßer Rebsortenが白ワイン Rote Rebsortenが赤ワイン)。しかし、近年、赤ワインの生産が伸びており、赤ワインの面積比率は24.1%(1999年)から35.1%(2014年)に増加しているという。

 そしてドイツの白ワインと言えばリースリングである(白ワインの一番上の黄色)。ドイツのワイン用ブドウ品種の4分の1がリースリングであり、ここ15年間、そのシェアに大きな変化はない。そして、リースリングが卓越して生産されるのは、13の生産地域のうちモーゼルとラインガウである。一方、他の白ワイン用ブドウ品種には大きな変化があり、グラオブルグンダー(ピノ・グリ)やバイサーブルグンダー(ピノ・ブラン)が著しく増加し、一方で、ミュラー・トゥルガウやケルナーが減少している。

 赤ワインで最も生産が多いのは、シュペートブルグンダー(ピノ・ノワール、凡例の赤)であり、南部、バーデン地方で高いシェアを占めている。近年、赤ワインで生産が伸びているのは、ドルンフェルダー(凡例のオレンジ)であり、赤ワインの中で栽培面積は第2位である。ドルンフェルダーは色の濃いワインで、元来は色づけのために他のワインに混ぜていたという。しかし、今日、現代的なワインとして人気を博している。

2016年4月5日火曜日

マップ・リテラシー

 マップ・リテラシーとは、地図を読み、使いこなす能力である。今日、カーナビやネットで、地図と身近に接する機会が増えてきた。だからといって、地図を有効にかつ適切に使えているだろうか?東西南北という絶対的な座標軸がもてなくなっている、そして縮尺の概念があいまいになっている、そうした問題が生じているのではないか、と思う。

 ノース・アップ、地図は北を上にしてみる。実はこれが重要である。私が大学に入った1年目の夏、地形学のI先生の調査のお手伝いで、北海道の手塩に連れて行ってもらったことがあった。むろん、地形図をもって歩く。彼が私に言ったことは、「地図は、今みている方向に合わせてぐるぐる回すのではなく、必ず北を上にしてみなさい。地図に合わせて逆に頭の中で現実を回転させなさい」。それ以来、彼の指示は守っている。こうすることで、絶対的な座標系の中で、そしてまた、町や村という大きなスケールでも、そして日本という小さなスケールでも、今、自分がどこにいるか位置づけることができ、自分が東に向かっているのか、南に向かっているのか、認知することができる。

 さて、カーナビやスマホの地図では、向かう方向に地図が回転するようにできるし、そのように利用している人も多かろう。これはこれで認識しやすく便利だが、絶対的な座標系の中で、自分を位置づけることはできない。右に曲がる、左に曲がる、、、常に相対的な位置の認知となり、様々なスケールにおける自らの位置づけも不可能となる。現代の便利な機器は「方向音痴」を増やすことになるのではなかろうか。

  次に、縮尺、スケールの問題である。カーナビで容易に地図の拡大縮小ができるし、グーグルマップなど、ネットの地図も大きくしたり小さくしたりできる。だが、今、自分がどれほどの縮尺で地図をみているのか、そうした意識が希薄であろう。地図は現実をある特定のスケールで縮小したものである。紙の地図であれば、2万5千分の1とか5万分の1とか、一定の縮尺の地形図しかなかった。福岡の街も、札幌の街も同じ縮尺で眺めていた。一方、ネットの地図では、福岡の街をどんどん拡大してみて、再び、縮小し、日本全体の地図にして、札幌近辺に移動して、札幌の街を拡大してみてみる。画面の隅にスケール・バーが示されているとはいえ、最初に福岡をみた縮尺と、今、札幌をみている縮尺が同じかどうかわからない!固定された縮尺で二つの街をみることで可能であった街の広がりの比較も、ネットの地図では容易ではないわけである。

 加えて、同じ15インチのディスプレイで地図をみるとして、そのディスプレイの解像度によって、縮尺と情報量が異なってくる。15インチであったとしても、XGA1024x768ドットとFHD1920x1080ドットでは、同じ範囲の地図を表示した時、縮尺は異なるし、同じ縮尺で表示した時に、表示される範囲は異なってくる。そして、どちらにせよ、ディスプレイで示される地図のもつ情報量は、印刷された地図がもつそれにはとてもかなわない。電子ブックが普及しつつあるといわれるが、パソコンやタブレット、スマホのディスプレイは印刷物の地図に容易に取って代わることはできないのではないだろうか、、、





 

2016年4月2日土曜日

ショッピング・センター「ハル・イン・チロル」

 インスブルックの隣り、列車で10分ほどのイン川沿いにHall in Tirolハル・イン・チロルという街がある。人口1万3千人ほどの小さな街ではあるが、かつてチロルにおいては、現在の中心都市インスブルック以上に極めて重要な都市であった。
 このハル・イン・チロルの地名の初出は、1256年である。ハルHallはHalに由来し、塩水泉や岩塩坑を意味する(ザルツブルク近くのハルシュタットHallstadtも同じ意)。当時、塩の産出がこの地の重要な生業であり、製造された塩は、ドイツのライン地方やシュバルツバルト(黒い森)地方、そしてスイスへ移出されたという(http://www.hall-wattens.at/de/hall-tirol.html)。岩塩坑というと、塩の塊を切り出していく、というイメージをもつが、実はそうではない。塩分を多く含んだ地層から流れ出る塩水を集めて、それを煮出して塩とする(従って、塩の生産には燃料とする大量の木材が必要であった)。
 1302年には、オットー公により、ハルは、インスブルックと同等の自治権を与えられ、その後、チロル北部で最大規模の旧市街を有するようになる。その後、1477年になって、チロル南部のメランMeran(高級保養地として知られる)から硬貨鋳造所が移転する。この鋳造所は1809年に閉鎖されるが、1975年、硬貨博物館において、鋳造が再開され現在に至る。そこでは、オリンピック記念硬貨や、ハル・タラーHaller Taler500年記念硬貨などがつくられた。このタラーは、1486年にハルで初めて製造された硬貨であり、それは広くヨーロッパに流通し、Dollarすなわちドルの語源ともなった。
 このように、塩の生産、硬貨の製造で重要な街であったが、ハプスブルク家マクシミリアン1世が、インスブルックに都を置くことで、チロルの中心はインスブルックとなっていく。今日、人口12万のインスブルックに対して、その10分の1しかないハル・イン・チロル、しがない田舎町になりさがったと思いきや、どっこい生きている!
 どういうことか、下のパンフレットをみていただきたい。表紙には「ショッピング・センター・ハル旧市街」と称されている。すなわち、街全体をショッピング・センターに模しているわけである。4月29日のブログで、「街全体がアウトレット・モール」として、ドイツの一つの街をアウトレット・モール会社がモール化している例を紹介したが、ここハルでは、既存の街全体を自ら一つのショッピング・センターとしてアピールしようとしている。2枚目の裏表紙は、よくある街の鳥瞰であり、観光名所を示しているが、3枚目は、ハルの街におけるカフェ、レストランなど飲食できるお店を示している。そして4枚目は、衣料品店や日用雑貨店を示す。まさに、屋内のショッピング・モールで配布されるパンフレットではないか! 

パンフレットの表紙 http://www.haller-kaufleute.at/

裏表紙:見どころ

カフェ、バー、ホテル、レストラン

衣料品店、日用雑貨店、書店
  このパンフレットをみると、それぞれの商店が中心の通りに集中して立地しているのではなく、街中に広く分散していることがわかる。実際、下の写真のように、横町にもブティックや工芸品店、レストランがみられる。しかも、それらの多くは新しく、近年、新規に立地したと見てとれる。こうした新規立地とともに、建物の改修も進み、いわゆるジェントリフィケーションが進行していると理解できよう。
 ハルは、こぢんまりとした中世の街をさながら一つのショッピング・センターとして機能させているかのようである。中世の町並みをそぞろ歩きながらのショッピング、、、それは屋根の下のショッピングにはない魅力であり、郊外型のショッピングセンターが増えるチロルにおいても、競争力があるのかもしれない。


ハルの町並み。イン・ザルツァッハ様式の建物が並ぶ。




広場では、週末に市が開かれる。ブラスバンドの生演奏も。



横町にある改修された衣料品店。

やはり横町のイタリアン。




2016年3月28日月曜日

観光パンフにみるチロルのイメージ


 貧乏性なので、フィールドに出かけた折に、タダでもらえるモノは何でももらってきてしまう。加えて、モノを捨てられない性分で、研究室には、国内外の各地でもらったパンフレットや小冊子、地図など大量に保管されていて、足の踏み場もない状況にある。
 そんな中、かつてチロルを訪れていた際に集めたパンフレットを発掘してみた。下の写真は、今から約30年前、1987年におけるWipptalビィップタルの観光客向けの情報誌である。ビィップタルは、チロルの州都インスブルックから南へブレンナー峠に向かって伸びる谷である(ちなみにブレンナー峠の南、イタリア側もビィップタルに含まれる。タルTalはドイツ語で谷を意味するが、単に地形を表すだけではないようである)。夏期に牛を放牧する山の牧場(Almアルム)の小屋が観光客のための休憩所となっており、小屋の前で、民族衣装をまとった女性(ピンクのエプロンの人)が、客をもてなす様子が描かれている。写真右にメニューが掲げられており、「アルム牛乳」や、「シュペック(チロルの燻製肉)とパン」、「チーズとパン」などが提供されていることがみてとれる。次の白黒の写真は、この情報誌の中の記事の一部である。Navisという村の紹介であり、その写真とともに、伝統ある農家建築や風俗をもって、いかにこの村が休養にふさわしいか説明がなされる。これらから、当時は、チロルにおける「農」が、すなわち、農業に関わる人そのものが、そしてまた、農業活動によって生み出される農産物や風景が強調され、これらが観光客を惹きつける観光資源であったことが読み取れる。


  さて、次の写真は、同じビィップタルの観光情報誌の2015年夏版である。農業活動によって創り出された雄大なチロルの風景が示されてはいるが、泥臭さは陰を潜め、「農」に関わる人々ももはや描かれていない。その土地固有の文化が紹介されるよりも、マウンテンバイクやハイキングなど、どのような活動ができるのか、が強調される。ビィップタルをチロルの他の観光地の地名に置き換えても何らおかしくないような、個々の場所から切り離された「チロル」がそこにはある。こうした「チロル」は現代の観光客がイメージし、そして追い求めるものなのかもしれない、、、



2016年3月11日金曜日

ドイツの放射線観測網(2)

 さて、ドイツにおいて原発の事故など緊急事態があった場合、放射能汚染がどこでどれくらい広がっているのか、そしてこれから広がる可能性があるのか、それを予測するシステムについてである。ドイツでは、このシステムをIMIS(Integrierten Mess- und Informationssystem統合観測・情報システム)といい、これは、PARK(Programm für die Abschätzung Radiologischer Konsequenzen放射線レベル評価プログラムとRODOS(Realtime Online Decision Support Systemリアルタイム・オンライン・意思決定サポートシステムから構成されている。このシステムによって、ドイツ各地における環境内の放射性物質とそれによる人間の外部被曝(大気中の放射性物質による)、内部被曝(摂取する汚染された食料による)が見積もられることとなる。ここで、拡散の予想には、ドイツ気象庁の気象予報も用いられる。

  このシステムによる予測結果は、地図に示される(ここでも地図というかたちの表現が用いられる!)。これにより、各地においてどの程度の汚染の可能性があるのか、そしてどんな防護手段が必要なのか、判断ができる。例えば、下図は、2005年4月14日にマンハイム周辺で放射性物質が放出された場合、4月16日まで葉物野菜におけるヨウ素131の汚染がどれくらいかシミュレーションしたものである。EUの基準が2,000ベクレル/kgなので、緑から黄色にかけての地域が基準値以下であり、オレンジから紫の地域が基準値を超えている。この地図において放射能汚染の程度は、市郡単位で示されており、どの地域の野菜が危険か、生産者も消費者も容易に把握することができる(千葉県のある観測点において放射線量の値が高いからと言って、千葉県全体が同様に高いとは限らない)。いざというときに(放射能汚染の可能性があるときに)、個々人がどう行動すればよいのか、支援するシステムが構築されている。同じようなシステムがもしあったなら、福島の、とりわけ原発に近い地区の人々の被爆はもっと小さいものにできたかもしれない。そして今も、原発を稼働させ続けるのであれば、事故のリスクを小さくすることはむろん重要であるが、リスクがゼロと言うことはありえず、もし事故が起こった際の放射能汚染に備えておくことは必要であろう。

http://www.bfs.de/DE/themen/ion/notfallschutz/entscheidungshilfen/entscheidungshilfen_node.html;jsessionid=3C6E254B61484702E2480CF5E9B1092A.1_cid374






2016年3月10日木曜日

ドイツの放射線観測網(1)

 先日、NHKスペシャル「“原発避難”7日間の記録〜福島で何が起きていたのか〜」を見た。もう少し掘り下げてほしいかなとも思ったが、目に見えない放射能に対して住民の方々のもつ不安はひしひしと伝わってきた。

  私は、1986年の6月に渡独し、1988年10月までドイツに滞在した。この渡独直前の4月にチェルノブイリの原発事故が起こり、西ヨーロッパへも放射能汚染が拡大することとなった。ドイツでも南部バイエルン州を中心として高濃度の汚染に見舞われている。当初は全く気にもとめていなかったし、大学の周りの教員も学生も気にしていないと言っていた。ところが、身近で放射能汚染を深刻に受け止める人がいて、自分も気にしなくてはいけないような気分になってきた。実際、リベラルな新聞Frankfurter Rundschau(日本でもよく引用されるFrankfurter Allgemeineとは別)には、週末になると、「今週の放射能」と称して、牛乳からは何ベクレル、牛肉からは何ベクレル、放射能が検出されたという記事が出されていたし、住民団体が、小冊子をだして、どの銘柄の牛乳はどれくらいの汚染があるかなど、食品毎に汚染の数値を示していた。全く気にせず生活を送る人々、一方で、放射能汚染を深刻に捉えて行動する人々、福島原発事故の日本と同様の状況が当時のドイツでも存在していたわけである。

 当時は、まだインターネットもなく、情報源は限られていた(しかもドイツ語!)。今、目前にし食べようとしている食品の中に、もしかして害があるかもしれない放射能が含まれている、と思うだけで、おいしくないし、大丈夫かと不安になってくる。鹿やイノシシなど野生動物やキノコなど特に汚染が激しいとされていた中で、フィールドとしていたチロルの村の民宿で、同宿のスイス人夫婦から、採ってきたというキノコの料理をニコニコしながら勧められ、「ありがとう!」と答えつつ口にした時の気分、、、。かような経験から、福島で放射能に対して不安に思う人々の気持ちはよくわかる、と思う。

 ドイツでは結局のところ、放射能に汚染された食品を2年近く食べてきたことになる。「またかよ!」と、福島の原発の放射能が関東にも風に乗って運ばれてくると聞いたときに呆然としてしまった。で、いつどれくらいのレベルの放射線物質が襲ってくるのか、そしてそれが屋内に待機すべきレベルなのか、あるいは避難すべきレベルなのか、よくわからないわけである。しかし、ドイツにいたときとは異なり今回は、インターネットがある。そこで、インターネットを活用してどう行動したか、加えて放射線のリスクをどう評価した、まず紹介してみたい2011年10月に埼玉県男女共同参画推進センター(With You さいたま)と埼玉大学の合同の公開講座「ポスト3.11を生きる-何ができるか、何をすべきか-」の中で「「災害のリスクを評価する-情報の海の中から」という題で話した)。

 事故直後はまだ、ネット上で、全国各地自分の住んでいる場所の放射線は把握することはできなかった。ただ各地の原発周辺ではモニタリングがされており、ネットでも公開はされていた(福島の周辺ものは故障で見られない状態が続いた)。関東では、茨城県北部東海村に原子力関連施設が立地しており、周辺数十箇所で、茨城県環境放射線監視センターが放射線量のモニタリングをしており、ネット上でリアルタイムで線量の変化をみることができた。ここは、福島第一原発から首都圏に向かう途中であり、この観測地点で線量が上がることは、その後、首都圏でも線量が上がると予想される。むろん、それは風向きによる。風がどの方向にこれから吹くのか、GPV気象予報http://weather-gpv.info/を利用した。ここは、5kmメッシュ単位で、風向その他の予報を39時間先まで行っている。茨城北部の観測ポイントで線量が上がり、関東北部で南西寄りのが続くようであれば、首都圏に放射性物質が及ぶ可能性が高くなる。ただ実際に線量が上昇しているかはわからない。そこで参考にしたのが、東京日野市に在住する個人のサイトで、自らのガイガーカウンターによる放射線量の観測結果を公開するものであった。茨城で線量が上がり、その後、日野で上がれば、確実に、埼玉や東京でも線量が上がっていよう。

  その後、各地で、放射線量の公開が行われるようになっていったが、埼玉県で1カ所、東京とで1カ所などわずかであり、面を広く覆うようなものではなかった。さいたま市の線量は、秩父のそれとは当然異なるわけであり、さいたま市の線量をもってして埼玉県の線量を代表させることは乱暴である。では、チェルノブイリの被害を受けたドイツではどうかドイツ連邦放射線防護局のサイhttp://odlinfo.bfs.de/index.phpでは、リアルタイムでドイツ全土の放射線量のレベルを地図のかたちで公開している。ドイツのどこで線量が高いか低いか一目瞭然であり、観測ポイントをクリックすると、グラフで線量の時系列的変化もみてとれる。観測ポイントは1800カ所であり、非常に密にかつ面を覆うように設けられている。このようなシステムがあれば、上に書いたようなことはする必要はなかった。現在、日本でも原子力規制委員会が、放射線モニタリング情報http://radioactivity.nsr.go.jp/map/ja/を提供している。公開が進んでいることは評価できるが、観測ポイントに偏りがあり国土全体を覆っていないし、また、都道府県単位、市町村単位でしか表示できず、福島県全体あるいは関東全体の線量の分布を俯瞰することが残念ながらできない。気象観測のアメダスは、全国にまんべんなく(ドイツ語でflächendeckende面を覆うように、この形容は、地域計画・空間整備にも使われる。17km間隔で1,300カ所)設けられている。このアメダスに放射線量の測定装置を付加するだけで、ドイツと同様のシステムが簡単にできるような気がするが、どうだろうか。 さて、この件のサイトで南部バイエルンの観測ポイントでも色の濃いところをクリックしてみてほしい。0.12から0.15μSv/hくらいで推移するところがけっこうある。このレベルは実は福島の中通り、福島市や郡山市のレベルとそう異ならない。また、東京よりもミュンヘンの方が値が高い。ドイツを含むヨーロッパでは、現在でも食品から放射能が検出されるし、チェルノブイリを未だ引きずっている。

  ドイツは、脱原発を打ち出したが、稼働中の原発は国内にもあるし、お隣フランスでは、原発は58基あり、事故による放射能汚染の可能性がないわけではない。この観測システムは、事故など緊急事態の際の汚染予測にも使われている(日本のSPEEDIと同様のシステムといえるが、ドイツでは各地の実測値も利用してる)。その予測については次回と言うことで。

 
 




2016年3月1日火曜日

ゴッタルド・トンネルその後

 28日(日)に行われたゴッタルド・トンネル建設を巡るスイスの国民投票の結果だが、賛成が188万、反対が142万、賛成が57%を占めて、2本目のトンネルが掘られることとなった(Tages Anzeigerというスイスの新聞のサイト http://www.tagesanzeiger.ch/schweiz/standard/resultate-gotthardroehre/story/20844341)を参照)。
 このTages Anzeigerのサイトをみてもらいたのだが、スイスのcanton州ごとの投票結果が地図で示されていて、州ごとにどこで賛成が多かったか解説している。それによると、反対が多かったのは、スイス西部のジュネーブ州とヴォー州(ローザンヌが州都)の2つだけであった(件のゴッタルドから遠い。そしてフランス語圏)。賛成の比率が69%と最も高かったのは、シュヴィーツ州とアールガウ州(ドイツ語圏)であり、当事者ともいえるウーリ州やティチーノ州では賛成が多数を占めたがそれほどでもなかった。これらの州では、世論が賛成反対、二分されたという。さらに、トンネルの南ティチーノ州ではゲマインデ(市町村)ごとに意見が分かれ、トンネルの出口に位置するアイロロでは76%が賛成だったが、反対が多数のゲマインデもあった。
 28日の国民投票では他のテーマについても投票がされている。こうした政策に対する評価、意識がスイス国内の場所ごとに如実に異なることが面白い。加えて、新聞などメディアも、主題図を多用して、地域差に注目し、解説している点も興味深い。スイスだけではなく、ドイツのメディアも同様であり、日本のメディアにおける地図の利用とはずいぶんと差があるように思う。確実に各メディアは地図の専門家カルトグラファーを使っている。頻繁に主題図がメディアに載ることで、読者の地図の見方や使い方、いわゆるマップ・リテラシーを高めることになるのではないだろうか。

2016年2月29日月曜日

田舎のショッピング・センター

 日本の話である。去る正月、実家に帰った折に、最近、改修されたという某大手ショッピング・センターにお酒を買いにでかけた。お酒の販売コーナーに行って驚いたのは、その規模、品揃えの豊富さ!地元の地酒は各種そろっているし、ワインも産地別に各種集められている。その上、試飲コーナーまで設けられている。こんな田舎で、世界中のワインが買えて、そして飲めるとは、、、。
 別の日、やはり最近できて話題となっているアウトレット・モールとやらに運転手としてでかけた。アウトレットとはいえ、日本や世界のよく知られた高級ブランドの店が並ぶ。ここでも、こんな田舎で、、、と、何もなかった一昔前を思うと、感慨深いものがあった。
 これまでであれば、より大きな街にでかけていかなくては手に入らなかったものが、すぐそこで買うことができる、そんな状況が生まれつつあるのではないか、と思う。田舎でも、大都市と遜色ない消費生活が可能になっている。既存の商店街の衰退をもたらすものとして、こうしたショッピング・センターは批判の対象となることも多いが、一方で、地方に住む人にも、これまで縁遠かったモノやサービスにアクセスする機会を提供していると評価できるかもしれない。それは同時に、コンビニの提供するボージョレー・ヌーボーや恵方巻きにみられるように、消費の平準化、画一化を伴ってもいるわけだが。
 いずれにせよ、こうした状況は、田舎に住む人にとっては便利になったということであり、生活水準が向上したということにもなろう。 そうであれば、都会に出ずにずっと田舎に住んでもいいかな、と思う人がでてくるかもしれない。そしてまた、都会から田舎に移り住もうという人が増えてくるかもしれない。
 

2016年2月28日日曜日

落語(2)

 年が明けていつの間にやら学期末。日本の暦と大学の学期には齟齬がある、と常々思っている。4月に新学期が始まり、調子に乗ってきたところで、ゴールデンウィークがやってくる。五月病とやらがいわれるが、休みが入ることで緊張が解けることもあろう。後期も後期で、年末年始でのんびりした後は、なんとなくオマケのような感じとなる。
 さて、再び落語である。相変わらず、通勤の際に聴いている。と、前回に指摘した笑いのツボにもう一つ付け加えたくなった。それは「逆転」である。弱いものが強く、逆に強いものが弱くなる主客逆転が笑いを誘う。「らくだ」で、恐い兄貴分に指図されていた屑屋が、お酒を飲むうちに、兄貴分に対して大口を叩くようになる。「初天神」では、ものを買ってくれと駄々をこねる息子に手を焼く父親が、息子に買ってやったタコ揚げに本人が子どものように夢中になってしまって、息子に呆れ果てられる。立場の入れ換わりがここにある。また、現実だと思っていたことが夢であったり(いわゆる夢落ち、たとえば「夢金」)、夢だったと思っていたら現実であったり(「芝浜」)、これもまた同種のものであろう。
 さて、落語は、道徳、倫理もまた伝えてきたと述べた。 合わせて、教育、伝承の役割も果たしてきたのではないだろうか。ご隠居に熊さんが、問いかけて、ご隠居が応える。それに対して、熊さんはまた頓珍漢な解釈をして応える。これがおもしろいわけだが、こうしたやり取りを通して、弥生は3月であることなど、言葉の意味を教授することになっているわけである。こうした語句に加えて、英雄譚、、合戦、和歌、川柳など、日本史や詩歌が落語の話の中にちりばめられることで、知らず知らずのうちにそれらが身についていくのかもしれない。落語初心者の勝手な解釈であり、落語家はそんなことはない、と否定されるかもしれない。が、意図しない効果というものはあるだろう。
 先日、本屋の漫画コーナーに、荒川弘の「百姓貴族(4)」を探しに行ったときに、「落語心中」という漫画を目にした。こんな漫画があるのだ、と第1巻を買う。最初にでてくる落語が「死神」。第2巻以降も買ってしまうかも、、、
 

2016年2月26日金曜日

ショッピング・ステーション

 「EUでは、、、」という言い方と、「ヨーロッパでは、、、」という言い方と、適当に使ったりしているが、むろん厳密には区別しなくてはいけないであろう。今回、久しぶりに訪れたスイスはヨーロッパに位置するが、EUには加盟していない。とはいえ、他のEU加盟のヨーロッパ諸国にみられると同様の都市や農村の変容があり、都市計画や地域計画において同様の方向性を有しているように思えた。(逆にEUに加盟していないスイスならでは、という特色にどんなものがあるだろう?)


  今回、スイスでは、チューリッヒ空港駅からベルン駅に降り立ち、ベルン駅からインスブルック駅に行く途中で、チューリッヒ駅で乗り換えをした。ベルン駅もチューリッヒ駅もとてもきれいに改修されており、同時に、駅構内に、それぞれ地下部分(ベルンでは駅ビルの2階、3階にも)に、多くの店舗が設けられていた。このように駅に多くの店舗が、まるでショッピング・センターのように配置されるのは、ドイツやオーストリアなど他のヨーロッパ諸国でもみられることである。


ベルン駅地下。中央は、中世都市の遺構。

遺構を活かしたカフェテリア。
チューリッヒ駅コンコース。この地下が下の写真。

チューリッヒ駅の地下。まるで地下商店街のよう。

 1992年に初めて旧東独のライプチッヒを訪れた時に、中欧最大とうたわれたライプチッヒ中央駅は、薄汚れていて改修工事の真っ最中であった。ところが、その後、再訪した際には、見違えるように駅はきれいになり、加えて、駅舎の地下2階、3階部分が、多くの店が並ぶモールになっていた。同じように、駅を改修して店舗をおくことは、その後、ドイツのあちこちの駅でみられたことである。

 日本でも、たとえばJR東日本がecuteと称して、駅ナカの商店街をつくろうとしているが、同じようなことが日本に先行してヨーロッパでもなされてきたといえる。 背景にあるのは、ひとつには店舗の営業日の規制である。近年、ずいぶんと規制が緩和されてきたとはいえ、日曜祝日の営業は、多くの国で規制されており、できたとしても年間何日とか定められている。ただし、例外があって、駅や空港、あるいはガソリンスタンドは、日曜祝日でも営業が認められてきた。旅行者、移動する人々の便宜を図るためである。したがって、お店があったとしても、サンドイッチや飲み物を売る店があったり、スーパーがあったとしても、規模も小さく品揃えも少なく、必要最小限の需要を満たすだけのものであった。ところが、上述のような駅の改修によって、街の商店街に並ぶのと同じようなお店が立地するようになってきたのである。スーパーにしても、本格的な品揃えの床面積の大きなものがみられるようになった。日曜日、街の商店街のお店はどれも閉まっている、しかし、駅の中のお店は開いている、しかも、街の中の店と変わらない、となれば、駅にお客さんはやってくることになる。駅におけるこのような商業機能の集積は、店舗の営業規制の網をくぐり抜けるように進行してきたともいえよう。


インスブルック駅の地下。右手に本格的なスーパー。週末はレジに列ができる。奥は駐車場。ここでも鉄道と自動車の接続が図られている。

  駅は今や、その町において主要な商業集積地のひとつとなりつつある。そして、交通のノード、結節点として駅の機能強化が図られているともいえる。「ショッピング・ステーション」という表題はミスではない。駅がショッピング・センターやモールのようになっている状況は、まさに、「ショッピング・ステーション」と称してよいのではないか。こうした駅への商業集積によって、消費行動が変化し、加えて、町の商業の分布なども変化するかもしれない。加えて、駅への機能の集中は商業にとどまらず、業務機能においても見られることである。これについてはまた今度。

 
最近、改修が終わったウィーン西駅。外見は昔とそんなに変わらない。向こうはオフィスビル(一部、商店)。



ウィーン西駅構内。きれいになったものだ。


地下2層がショッピング街となっている。