2015年5月30日土曜日

川崎エクスカーション(3)

 川崎駅東口では、閉店セールをやっているさいか屋の前を通り、チネチッタ通りにまずは向かう。ここは今回、楽しみにしていたところでもある。立澤(2013)によると、この通りには、1987年、シネマコンプレックス「チネチッタ」が開業する(日本初とのことだが、ほかでも日本初を主張しているところがある(Wikipedia))。そして、2002年に、映画館、ライブ・ホールに加えて、物販店や飲食店、スポーツ施設などを有する複合商業施設「ラ チッタデラ」として再スタートした。ラ チッタデラはイタリア語で小さな街、イタリアの町並みをイメージして建物の外観、石畳の通りが造られたという。歩いてみると、それっぽい雰囲気。土曜の午後ということもあり、歩く人も多く、通りに面するカフェテリア、レストランのテラス席で、談笑する姿がみられる。この地に詳しい同行の学生によると、少し前までは、閑散とした通りであったとのこと。実際、西口のラゾーナの開店などの影響があるようである。確かに借り物の街並みであり、景観のイミテーションである。川崎という土地に根ざしたものでもなく、企業によって造り出されたものである。某巨大テーマパークもしかりである。だが、そこには、イミテーションと知りつつ、あえてその中につかの間、入り込んで楽しむ成熟した消費者がいる。街中の商店街もまた、テーマパークのように、一時の夢の中に誘い込むように仕掛けなくてはいけないのではないか。

 この複合施設ラ チッタデラが位置するチネチッタ通りの前後、そして横町にも、クラフトビールを飲ませる店など、小洒落た飲食店ができている。旧来の商店、飲食店もあるにはあるが、周辺への「イタリアの小さな街」というテーマの波及がみられ、通り全体、そしてこの地区一帯で、いわゆるジェントリフィケーションが進展しているようにみえる。川崎小川町バルとして、イベントを開催、プロモーションもしており、これには行ってみたい、と思う(http://lacittadella.co.jp/ogawachobar_map/#stacktitle1)。さて、チネッチッタ通りから横丁に入って、ラ チッタデラの運営会社チッタグループの歴史を紹介する歴史ギャラリーをみつけ、のぞいてみる。この会社は、1922(大正11)年に、日暮里で映画館の経営を始め、1936(昭和11)年には川崎で、そしてその後も各地で映画館を開設した。昭和30年代のこの地区の地図が展示されていたが、川崎映画劇場、川崎スカラ座、川崎名画座、川崎大映、川崎東映、川崎日活など多くの映画館が立地していた。加えて、スケートリンクなどをもつスポーツセンターやボーリングセンターがあり、バーや喫茶店もある。川崎駅前にあって、この地区が娯楽の場であり、それが今日まで、かたち(景観)を変えて持続しているともいえる。一緒に見学していた学生らに、「誰か、ここをテーマに卒論を書いてみたら?」

  チネチッタ通りを後に、銀柳街へ。某学生は、行くのが怖いという。彼にとっては、治安の悪い場所であり、近づきたくないところであるらしい。土曜の真っ昼間、そんなことはないだろうと無理矢理連れて行く。案の定、アーケードのあるしごく普通の商店街。「普通」と言っても普通ではないかもしれない。駅前のアーケードのある商店街であるからには、ある意味、その街の中心商業地であっただろう。しかし、今、目前にしている商店街は、どこにでも見かけるチェーンの飲食店やドラッグストアやカラオケ店、、、。地場の老舗の物販店などはみられない。それなりに歩く人で賑わっており、シャッター通りにはなってはいないが、こうした状況は、商店街の衰退を示しているともみてとれる。ドイツの中心商業地でもみられるように、金太郎飴的な同じような店舗構成の商店街が各地にできているのではないだろうか。銀柳街から脇道に入ると、歓楽街、昼間から営業している店もある。けっこうな規模であり、この機能の集積は大きい。

 やがて我々は旧東海道にでる。ビルが建ち並び、すでに宿場町の面影はない。駅周辺との競合から商業の立地も乏しく、マンションの建設が進んで居住機能の強化が進む。街道に沿って間口が狭く奥行きが長い細長いマンションが目立つ。宿場町の地割りが今日のマンションの形態を規定しているわけである。街道沿いに沿って東京方向に歩くと、都市銀行の川崎支店、川崎信用金庫の本店をみる。これらの存在は、かつて旧東海道沿いが、街の「中心」であったことを物語ってくれる。川崎信用金庫の広場では、女性ボーカルが歌う。川崎宿の中でもこのあたりはいさご通りといい、月に一度、若いミュージシャンによる無料野外コンサート「いさご通り街角ミュージック」を開催しているようである(http://ameblo.jp/isagomusic/)。あまり観客も多くなく、街づくり、街おこしとして効果のあるイベントともみえなかったが、我々の訪れた週末は、162回、163回にあたり、かなり長く継続しており、それなりに定着しているイベントといえる。音楽を通したまちづくりといえば、仙台の定禅寺ストリートジャズフェスティバルが有名である。 メジャーなミュージシャンを呼んできて、人を多く集めればよい、というわけでもないだろう。地元の人々が、地元の若い音楽家の声、音に耳を傾ける、、、それはそれでよいかもしれない。東海道かわさき宿交流館で展示をみて京急川崎駅へ。

 
 
 

2015年5月26日火曜日

川崎エクスカーション(2)

   再び南武線にて、川崎方向へ。右手にみえる渡り廊下で結ばれた高層ビル2棟はNEC多摩川ルネッサンスシティ。ここもまた研究開発拠点である。鹿島田駅前にもまた、高層マンションが数棟。武蔵小杉の開発とそれによる価値の上昇が、周辺地域に及んでいると言うことではないか、と言うと、「横須賀線の新川崎駅が近いですからね」と返す学生。こういう切り返しはうれしい。

 川崎駅の東西を結ぶコンコースは、待ち合わせの人、行き交う人でごった返している。まず西口のラゾーナ川崎プラザへ向かう。2006年に、東芝の工場跡地にオープンしたこのショッピングセンターは、約300店舗を有し、売り上げ日本一(約700億円、2011年)のショッピングセンターであるという(立澤芳男 2013. 立澤芳男の商業施設見聞記|第2 ラゾーナ川崎プラザ.  ハイライフ研究所. http://www.hilife.or.jp/wordpress/?p=7481)。「売り上げ日本一」に学生らは驚く。なぜ、これほどの売り上げを誇るのだろうか、と問う。元来、東京近郊地域は、人口に比して商業施設は少なかった。東京のもつ商業機能に依存し、顧客が東京へ流出していたわけである。商業施設をそこにつくれば、顧客はいる。一方で、近郊に立地していた工場が、より外縁部へ、あるいは海外へ移転することで、商業施設のための用地が生み出された。ここラゾーナ川崎プラザと同様、かつての工場用地を転換して商業施設とする例はここそこにみられる(埼玉県南部にも多い)。ラゾーナの場合は、立澤(2013)によると、商圏は地元、川崎区、幸区にとどまらず、南武線沿線、そして、大田区や品川区にまで広がっているという。東京へ消費者が流出していた状況から、東京から流入するような逆の流動が生まれているわけである。

 工場用地の転換は、商業施設へばかりではない。このラゾーナの東に隣接して、高層マンションが建てられているが、これも東芝の跡地であり、ショッピングセンターと併せて開発されたものである。さらにその東のオフィスビル「ソリッドスクエア」は明治製菓の工場跡地に建設された。生産の拠点である工場が、研究開発拠点へ、商業・業務施設へ、そしてまた、住居へと転換する一方、小川(2003)によると、そのほか、学校に転換されたものも多いという。

 ラゾーナに隣接する東芝未来科学館を訪ねる。 東芝と川崎との関わりについてなんらかの情報が得られるかと思っていたが、それについてはほとんどない。他の工場と同様、より広い敷地を求めて、東京から外方へ、ここ川崎に進出したと言うことか。原発までも造る東芝は、重電メーカーというイメージをもつが、日本初の電気洗濯機、電気冷蔵庫、自動電気釜を造るなど、由緒ある家電メーカーでもあることを、展示をみて知る。世界初のラップトップPCも展示されている。ちなみに、私が初めて買ったノートPCは、東芝製ダイナブックであった。dynabookJ-3000SS、価格は19万8千円、当時のF1レーサー鈴木亜久里がキャラクターに用いられてたことを覚えている。実は今また、ダイナブックを使っている。dynabook satellite T954、ハードディスクもなく画面もモノクロの初代ダイナブックとは隔世の感がある。

 老若男女で賑わうラゾーナのフードコートにて昼食後、川崎駅東口へと移動する。日本の駅には表と裏がある。多くの場合、旧街道に沿って鉄道が敷設されてきた。 そして、駅の出入り口が、旧街道側に設けられることで、駅前から旧街道にかけて商業の集積をみる。一方、駅の反対側は、駅へのアクセスも悪く、開発されないままか、倉庫や工場が、あるいは住宅が立地する。やがて、この裏側にも駅の出入り口が開設されて、開発が進展することになる。駅への近接性といった点では、表側とは遜色はないので急速に開発が進むことになる。川崎の場合、西口ラゾーナ側が裏で、東口、旧東海道側が表といえる。川崎の場合、加えて、東口には、京急が通り、京急川崎駅もある。川崎駅東口前には、さいか屋や川崎ルフロン、川崎モアーズ、DICEなどといった大型商業施設が位置する。立澤(2013)によると、東口の大型商業施設としては、1951年の小美屋デパート開店が最初で、1956年にさいか屋ができる。1996年に小美屋デパートが閉店し、跡地がDICEとなった。そして、さいか屋は、この日、閉店セールをやっており5月いっぱいをもって店をたたむという。また、1988年に西武と丸井を核としてできた川崎ルフロンから、2003年に西武が撤退している。このように旧来の百貨店が次々と撤退してきてはいるが、その跡地がまた別の様態のショッピングビルとなるのは、東京近郊ならではのことではないだろうか。

 

 
 

 


 

 

2015年5月25日月曜日

川崎エクスカーション(1)

 先日の土曜、ゼミの学生らと川崎区を中心に川崎を巡るエクスカーションを実施する。川崎については、小川一朗 2003.『川崎の地誌ー新しい郷土研究』有隣堂.がある。これはなかなかによい。とりわけ工業の分布や移転に関する魅力的な図が多数掲載されている。近年の変貌について、牛垣雄矢 2008. 川崎市における地域構造の変化―産業と商業地の動向より-.地理誌叢49:16-33. があり、参考とした。

 JR登戸駅に集合。駅前東側を眺める。駅前広場を巡り2階建て木造の飲食店、飲食店が入ったビルが並ぶ。東京都心から放射状に伸びる鉄道と南武線との接合駅の中でも、溝の口や武蔵小杉に比べると、登戸駅における商業機能の集積は明らかに劣る。駅のすぐそばにおいても戸建て住宅が目立つ。駅前再開発が進行中とのこと、完成の暁には、どのような変貌がみられるだろうか。

 南武線に乗り、川崎方向へ。住宅、とりわけアパートと思しき低層の集合住宅が目立つ。時間の関係でパスした溝ノ口を過ぎると、規模の大きな高層マンションがここそこに現れてくる。武蔵小杉に近づくほどに、合わせて工場用地が増える。芝を敷き詰めた敷地に新しい瀟洒なビルが建っている場合が多い。先の2つの文献によると、各企業は生産の拠点を外部に移転し、研究会開発拠点を残しているとのこと。孫引きだが、川崎市における全産業従事者に占める教育・学術研究機関従業者の比率は13.6%で、なんと全国1位である(牛垣、2008)。川崎といえば何かを生産する工業、というイメージが強い。したがって、この「1位」には学生らも驚いた様子。

 武蔵小杉で途中下車。大学から生田緑地の向こうに見えるスカイラインがここである(と、いうと、学生らは、「あぁー、そうか、、、」。おいおい、地図なり実際に行ってみるなりして確かめろよ、と思う。ちなみに私は一度、大学の帰りに車で立ち寄り済み)。武蔵小杉は、元来、中原街道が多摩川を丸子の渡しで渡った後の街道沿いの町。この旧街道沿い周辺には、雑然とした昔ながらの飲食店が並ぶ。一方、東急東横線とJR横須賀線の間には、高層マンションが林立する極めて特異な景観がみられる。川崎まちづくり局によると、20階以上のマンションで11棟あり、現在1棟が建設中である。歩いてみると、これらが密集しているわけではなく、間隔をおいて建てられ、緑も多くゆったりとしている。武蔵小杉東急スクェア、グランツリー武蔵小杉、ららテラス武蔵小杉といった有名テナントが入った単価の高い商業施設も駅周辺に立地している。「ニコタマみたいですね」と一人の学生が言う。この感覚はよい。 なんでも武蔵小杉は、これまで神奈川県内の住宅地価1位の横浜市中区山手町を抜いて、1位となったという(要確認)。元々、東急で渋谷、目黒へ一本でアクセスでき、加えて、2010年、横須賀線の武蔵小杉駅ができて、品川・東京方面、そして、湘南新宿ラインで、渋谷・新宿・池袋へのアクセスもよくなった(南武線もあります!)。それに加えて、少数の企業が所有していた広大な土地があった。豊洲など湾岸エリアと似ている、と述べた学生がいたが、湾岸エリアでは、干拓によって広大な土地を獲得することができたわけである。

 武蔵小杉駅は、旧来、南武線ではグラウンド前駅、東急東横線では工業都市駅であったという。すなわち、東京という都市の拡大とともに、広い面積を必要とするグラウンドや工場が周辺へと移動し、武蔵小杉周辺にもそれらが立地していたことになる。さらなる都市化、都市の拡大により、そして産業構造の転換により、グラウンドや工場はさらに外方(あるいは海外)へ移動し、土地利用の変化、とりわけ居住地への転換が生じたといえる。ここにおいて、居住地としての大きなイメージの逆転があるといえよう。良好な(ハイソな?)住宅地としての武蔵小杉のイメージは、実際のアクセスの良さや住居の質の高さからだけではなく、デベロッパーによるマーケティング戦略によるところも大きいかもしれない。

 
 




2015年5月20日水曜日

休講

 大学の野球チームがリーグ戦で優勝しそうだという。本日の試合で勝ち、別のあるチームが負ければ、明日の試合に勝つことで優勝とのこと。なんでも、スポーツチームが優勝のかかった試合をする日には、応援のため、なんと終日、休講になる規定があるそうである。今日の午前中に、優勝するためには負けてもらいたいチームが負けた。そして、午後に、我が大学の試合。ちょうどその試合中に大勢が参加する会議があった。その会議の終わりに事務の人が、「勝ちました!」。「おぉー」というどよめきとともに、ぱちぱちと拍手が。このどよめきと拍手は、チームが勝ったことに対して?それとも休講になることに対して?

2015年5月17日日曜日

上野東京ライン初乗り

 14日、浦和駅前にて所用。次の目的地、四ッ谷に行くには時間があったので、はじめて上野東京ラインに乗る。先頭車両、11時も過ぎて空いていると思ったが、 けっこうな人で、座れないし、運転席にもかぶりつけない。上野駅で乗客の半数近くが降りる。ターミナル、乗換駅としての上野駅がどうなるのか興味のあると ころであるが、地下鉄銀座線や日比谷線もあるし、商業の集積もある。それなりの拠点性は維持されていくことであろう。

  上野駅からしばらくは徐行。御徒町付近で、3線のうち1線は従来からある電留線へ、上野東京ラインは2線になる。秋葉原を過ぎてからはけっこうな勾配の上 り坂となり、ビルの高層階を眺めつつ、神田からすぐにまた急な下り坂となり東京駅に至る。東京駅で降りる人よりも、そのまま乗車する人が多い。湘南新宿ラ インも同様で、池袋、新宿、渋谷をスルーして乗り続ける人がけっこういる(だから座れると思っていても座れない!)。どうしても郊外から都心への移動が主 であると考えてしまうが、そうでもないらしい。彼らは、どこからどこへどういう目的で移動しているのだろうか。夕刻、向ヶ丘遊園から新宿行きの小田急に 乗ってもいっぱいの人である。ここでも、単純に郊外から都心への通勤・通学移動だけではなく逆の動きもあることがわかる。郊外は居住の場所のみならず、業 務機能、教育機能など多様な役割をもつ場所になっているのであろう。そこで、郊外から都心へ、そしてまた郊外から郊外へといった従来とは異なる人の流動が 生じているのかもしれない。

 大学で教わったO先生の講義で覚えていることの一つに「ターミナル・コスト」がある。 列車が、ある都心の終着駅に着いた際には、乗務員の入れ替え、機関車の付け替えなど、時間と費用がかかる。都心の終着駅をスルーして、反対側の郊外まで列 車を走らせることで、コストを減らすことができて、効率化につながるという。彼の話を聞いて後、ドイツ、マンハイムの街に行き、その路面電車をみて、なる ほど、と思った次第である。マンハイムの都心に四方の郊外から入る路面電車は、そのまま都心をスルーして、反対側の郊外へと至る。路面電車の場合は特に、 都心を終点にはするのは合理的ではないが。東京においても私鉄と地下鉄の相互乗り入れが始まり、やがて、ある方向からの私鉄と地下鉄と別方向への私鉄の相 互乗り入れが行われるようになってきた。そこでは、乗客にとって都心に直接アクセスできるというが強調されているようだが、運営する側の効率化ということ もあるのだろう。JR東の都心スルー路線、湘南新宿ライン、上野東京ラインも同じ文脈でとらえることができよう。

 と、 そんなことなど考えながら、自分自身は東京駅で降りる。せっかくここまできたので、丸の内のオアゾという奇っ怪な名前のビルにある丸善に立ち寄る。アマゾ ンなどネットで本を買う機会が増えてきたとはいえ、並んでいる本を眺めて品定めをするのもまたよい。思いがけない本に出会ったりもする。Enrico Moretti "The new geography of JOBS"を目にし、購入する。

2015年5月15日金曜日

道路

 昨夕は学科による新入生の歓迎会。上級生が、工夫を凝らし、ユーモアの溢れる企画を催してくれた。車での帰宅だが、中央環状線は夜間工事のため渋滞。夜間で空いているだろうと、第3京浜で横浜までいき、湾岸線に入って戻ってくることとした。横浜も大都会、横浜ベイブリッジあたりからみるみなとみらいの夜景も、レインボーブリッジからの都心の夜景に負けず劣らず見事なもの。湾岸線も工事で大井から先は渋滞、1号線に入り都心環状線を時計回りで走ってくる。

 慣れてきたとはいえ、首都高の走行はやはり怖いところがある。昨日も行きに危うく事故を起こしそうになった。 こういってはなんだが、合流のアプローチが短かったり、走行車線側に分岐があったり、道路の設計がそもそもよくないのではないか。それは一般道路にもいえることである。かつてドイツ滞在中、車(Opel Kadettというクラッチ板がすりきれてスピードの出ない車だった)を保有、運転してあちこちにでかけていた。その後、日本に帰って、日本で再び運転をしてみると、運転の怖いこと!幹線道路でも、脇道からの合流が次から次とある。2車線の道路の右側車線で、止まって、向こう側の店に入ろうとする車がある。冷や冷やの連続であった。振り返って、ドイツの道路がいかにうまくできていたかと感じ入った。ドイツ人は決して器用とはいえない。そんな彼らがスムーズに運転できるように道路が作られていると言うことである。へたくそなドライバー、注意散漫なドライバーでも、走行ができるように、「人間工学的」に考えて道路が作られているのではないだろうか。

 あってはならないことではあるが、交通事故は起こした人の責任、ということになっている。運転するものが注意すべきことになっている。それでも、事故は起こる。起こしたくなくても起こってしまう。そうした事故のうち、もしも、道路の構造が違っていたら、より運転しやすい道路であったり、見通しのよい交差点であったりしたら、起こらなかったであろう事故は実は多いのではないか。個人の責任をおいておいて、なんでもかんでもを行政や企業の非にすることは好ましくはないが、交通事故の加害者、被害者双方のことを考えると、「走りやすい道路」、「ストレスをあたえない道路」を作っていくことは意味があろう。もし、もう一度、大学で学べるとすれば、やりたいことはいろいろあるが、この道路づくりはそのうちのひとつである。

 

2015年5月8日金曜日

また秋葉原

 昨日は、野暮用にて秋葉原。そうでなくてもしょっちゅう来ている街ではあるが、ついでに、最近、訪れていないところにも足を伸ばしてみる。

 外国人観光客の増加が話題となっているが、秋葉原も以前に比して その数は明らかに増えている。彼らは、中央通りのようなメインストリートだけではなく、その西の裏秋葉と呼ばれるような路地にも出没している。昨今、観光ガイドブックだけではなく、インターネット上の個人の情報発信源が、観光の際の重要な情報源となっており、観光客の行動も変化し、多様になっているのであろう。

 彼ら外国人にとって、電気製品やアニメ、メイド喫茶などにとどまらず、活気があって雑然とした様もまた魅力だといえよう。猥雑なマーケットの雰囲気とハイテク、オタク世界の奇妙な融合、、、。歩いていて面白い、何か新たな発見があるのでは、と思わせてくれるような街はそうそうないであろう。

 交通・通信技術の発達により、人や物資、そして情報が世界中を一気に駆け巡る時代である。世界各地において存在していた場所の個性が、やがては失れ、どの場所も同じようになってしまう、収斂して均質化するという見方がある、一方で、現代においては、技術革新によって、個人が個性をより発揮できるようになっている、それぞれが趣味やライフスタイルにおいてやりたいことをやることで、バーチャルな世界だけではなく、現実世界において個性ある場所が出現するという見解もある。 現代社会はどちらの方向に向かっているのか、地理学においても興味深い課題である。そして、秋葉原のような場所の生成は、何を物語ってくれるのだろうか。

経済力と芸術

 お金のあるところに芸術品が集まると言われる。世界の各都市のGDPと、それぞれの都市にある芸術品の評価額(個人のコレクションまでは把握できないだろうが、美術館の分は評価可能であろう)の相関をとってみたらどうだろう?むろん過去の繁栄時に収集された芸術品が、衰退後も維持されている例もあろうが、基本的に相関関係があることは明白であろう。

 昨日紹介したマンハイムにも美術館Kunsthalle Mannheimがある。マンハイム自体、バロックの城と都市形態をもつが、町並み自体は新しく、これといった観光資源もない。日本からの観光客もそう訪れるところではない。しかしながら、30万を超える人口を有する工業都市マンハイムは、ドイツでは大きな街といえ、この美術館もそれなりに充実している。

 Kunsthalle Mannheimは、ベックマンやキルヒナーなどドイツ表現主義のコレクションで知られる。人の内面をグサリとえぐり出すような作風はあまり気分のよいものではないが、インパクトはある。また、印象派では、マネの大作「皇帝マクシミリアンの処刑」やセザンヌの「パイプをくわえた男」(同じモチーフが複数ある)などがある。折に触れて訪ねてきたが、いついっても閑散としていて、入場者よりも係員の方が多いのではないかと思うほどである。ヨーロッパを訪れたときに誰もが行くのが美術館。著名な美術館において人混みの中で慌ただしく著名な作品をみるよりも、こんな小さな美術館で、静かにじっくりと作品と向き合うのもよいかもしれない。

2015年5月7日木曜日

Ethnic Gentrification

  ジェントリフィケーションは、都市地理学など都市研究において用いられてきた用語であり、先の学会でも、ジェントリフィケーションを巡っていくつかの発表があった。ジェントリフィケーションgentrification、すなわち質的な向上とは、複合的、多面的な意味で用いられる。都市の中心部、スラムと呼ばれるような荒廃した地区、そこでは建物の質も劣悪で、住んでいる住民層も失業者や低所得者層で、犯罪も多発したりする。そんなところに、自発的に、工芸家や音楽家などアーティストが住み着いて、アトリエやライブハウスなどを開いたりする。面白い地区として、同じような層が集まってきて、彼らによって小洒落たカフェやバー、レストランなどができ、彼らなりの改修を重ねて、魅力的な場所へと変貌を遂げていく。あるいは、行政当局が、再開発によって、一気に古い建物を壊して、新しい住宅を建設し、高くなった家賃を支払えるだけの人々が移り住んでくる。いずれの場合も、住民層の入れ替えdisplacementによる社会階層の質的変化、そして景観上の質的変化を伴うという意味で、ジェントリフィケーションが生じたとされる。

 さて、私が時折、訪れてきた場所にドイツ中部、工業都市マンハイムがある。17世紀初頭に、ライン・プァルツ選帝侯が、ハイデルベルクから居城を移すべくライン川とネッカー側の合流部に建設した格子状の道路網をもつ宮廷都市をベースとする。私がドイツで、そして海外で最初に宿泊した都市でもある(Gasthaus Goldene Gans、トレードマークがよかった)。
 このマンハイムには、多くのトルコ系住民が住む。ドイツにおいては、第2次大戦後の労働力不足の時代に、労働者としてトルコ人を積極的に受け入れてきた。今日、ドイツの人口8千万のうち、外国人は810万人、トルコ人は最も多く153万人である(2014年。http://de.statista.com/statistik/daten/studie/1221/umfrage/anzahl-der-auslaender-in-deutschland-nach-herkunftsland/)。ドイツにおけるトルコ人の最大の集住地区は、小イスタンブールと称されるベルリンのクロイツベルクである。ドイツ西部地区では、このマンハイムが多くのトルコ人を抱えており、市の人口32.9万人のうちトルコ人が2.8万人を占めている(2013年。https://www.mannheim.de/stadt-gestalten/bevoelkerung)。彼らトルコ人が集住する一つが、市中心部Marktplatzから西南西、ラインの港に至る通りである。1987年、ハイデルベルクにいた頃、エクスカーションで連れて行ってもらった頃は、なんとなく薄汚れた印象であった。



Marktplatzに面するトルコ人向け商店(1987年)

トルコ人向けの店が並ぶ通り(1987年)

バーが並ぶ。手前にはトルコ人家族。(1987年)

荒廃した建物(1987年)

現在のトルコ人街。改装されたトルコ料理店ときれいになったファサードの建物。



ところが、である。折に触れて訪れるたびにこの地区はきれいになっていく。レストランやパン屋は小ぎれいに改修され、通りの建物も、見栄えよく塗られていく。加えて、彼らの居住域、経済活動の範囲も、メイン・ストリートにまで広がっていった。住民の入れ替えはなく、彼らの経済的状況の変化、すなわち所得の向上、生活水準の改善によって、この地区の質的向上、ジェントリフィケーションが生じたといえる。ベルリンが長かったS大のN氏にこの話をしたところ、クロイツベルクでも同様の傾向にあるという。実際、N氏にクロイツベルクに連れて行ったもらったところ、小ぎれいになり、ドイツ人らも多く訪れるようになっていた。社会階層の入れ替えを伴わない、民族集団の経済的状況の変化に伴うこうした変化は、ethinic gentrificationだ、と勝手に名付けていた。ググってみると、カナダ、トロントでも、民族地区のジェントリフィケーションが生じているらしい。ドイツの科学研究費DFGの研究助成でも、ハノーファー大学のMatthias Schmidtによる研究プロジェクトEthnic Gentrification? - Zur Rolle aufstiegsorientierter Migranten bei der Aufwertung innenstadtnaher Altbauquartiere(2011-2013)があった。ethinic gentrificationという用語が適切かどうかは別として、新たな現象としては生じており、注目されていることは確かである。