2019年4月26日金曜日

ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」(2)-1:ドイツのビール

 新学期が始まり、歓迎会、新歓コンパなど飲む機会も多い(新学期だけではなく年中だろう、という声も聞こえてきそうだが、、、)。それにちなんで、ようやくに、ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」の第2弾として、「ドイツのワイン」に続いて「ドイツのビール」をとりあげたい。
 学生時代にドイツにいた頃には、むろん毎日のようにビールを飲んでいた。全国で販売されている言わばナショナル・ブランドのビールもあったが、それぞれの町や地方で生産され、そこでしか販売されないビールも多かった。ビールは、そのビールが生産されたビール工場の煙突の見えるところで飲め、と誰かから言われたものである。それぞれが個性ある味わいをもつ、日本でいえば地酒のようなものであろうか、そして何よりも新鮮さが大事ということであろうか。ドイツから帰国して、友人等に帰国の会を開いてもらって、そこで「これが今、日本で流行っているビールなんだぜ!」と飲まされた某社の某ビールを飲んで、「これがビールか?ビールじゃないだろう!」と驚いたことを鮮明に覚えている。日本でもドイツでも基本的に同じピルスナー・タイプのビールが主であるが、日本では、一気に飲み下すことを前提に、のどごしを重視するのに対して、ドイツでは、ビールを日本酒のように舌の上で味わいながら楽しむのではないか。ビールの飲み方の違いが、ビールの「造り」の違いをもたらしているのかもしれない。
 さて、次の地誌研究所のHPは、ドイツのビール醸造所を取り上げている。
http://aktuell.nationalatlas.de/brauereien-3_04-2019-0-html/
 この1枚目が、2017年におけるドイツのビール醸造所の分布、2枚目が、2004年~2017年における醸造所の変化、3枚目が、ドイツにおけるビール・コンツェルン(10大ビール企業)とその立地、そして、グラフの1枚目が1956年~2018年におけるバイエルン州とその他ドイツの醸造所数の変化(バイエルンだけが別になっているのがなんとも、、、)、グラフの2枚目が、2004年~2018年における規模別ビール醸造所の変化を示している。
 ドイツは世界で最もビール醸造所の分布密度が高い。ここで、ドイツの10大ビール企業が、市場の約3分の2を占めている一方で、クラフトビールの流行も相まって、小規模なビール醸造所も増えている。この傾向はとりわけ大都市において顕著である。ドイツ全体では、約1500の醸造所があるが、その半分以上はいわゆるマイクロ・ブルーワリーである。
 1874年、ドイツ帝国のもとで、ビール醸造所はなんと2万8千カ所あったが、第2次大戦後には、様々なデータがあるが、おそらくは1万強までに減少した。そして、1988年に至っては、1168カ所までとなる。 背景には、工業化の進展や醸造所の吸収合併があり、レストランや農業と兼業で行われていたビール醸造が消失していったという。
 1980年代になって、伝統的な地方のビールを好むという消費性向が現れ、こうした縮小傾向に歯止めがかかる。さらに、2000年代になって、マイクロ・ブルーワリーが流行りだす。伝統的な小規模ビール醸造所が再発見されるだけではなく、北米やイギリスの影響を受けて、新しくマイクロ・ブルーワリーが拡散しはじめた。これらは、小規模で、ビールはホップとモルツ、酵母、水だけしか原料としてはいけないという「ビール純粋法」を無視するものであった。そして、アングロ・アメリカで好まれるような味が求められ、上面発酵のエールやIPAのような強い香りと独特の風味を持ち、アルコール度数が高い。
 2017年において1500あるビール醸造所のうち半分以上が、年間生産量10万リットル以下の小規模醸造所である。これらの市場シェアは、0.3%に過ぎない。一方で、26大ビール醸造所が全体の市場の6割を占めている。
 最初の図「2017年におけるビール醸造所」によると、ドイツにおける南北格差が明瞭である。バイエルン州(657カ所)とバーデン・ビュルテンベルク州(214カ所)でドイツ全体の半分以上を占めている。バイエルン州内では、バンベルク周辺のオーバーフランケン西部で分布が密であり、ここは世界でも突出してその密度が高い。この高密度は、かつて司教から与えられた醸造権という歴史的な特異性に起因するものである。ちなみにこの辺りは、フランケン地方の中でもビール醸造所が集中することから「ビール・フランケン」と呼ばれる一方、この西部、ビュルツブルクを中心とする地方は、ワインの産地であり、「ワイン・フランケン」と呼ばれる。
 ヨーロッパにおけるドイツの位置をみると、EU全体のビール醸造所の半分以上がドイツにあり、次いで、イギリス(667)、オーストリア(168)、ベルギー(115)、デンマーク(105)となる。逆に、1醸造所あたりの生産量は、760万リットルと最低である。

(続く)



 
 

2018年10月2日火曜日

地理屋と鉄ちゃん

 後期が始まる。今年の夏休みは、まずはブラジル・パラナ州にドイツ系移民の調査に入り、その足で(ブラジルから直に飛んで)オーストリア・東チロルにおいて、農村移住者、そしてEUの地域政策によるプロジェクトの調査を行った。久しぶりに一か月ほど日本を留守にしたことになる。帰国後も、学生らと大阪、そして軽井沢へ、学会で和歌山へとでかけ、腰の据わらない日々であった。ここに書けばよいであろう興味深い題材も多く得られた夏でもあった。そのうちに、、、、、といいつつ月日は過ぎる、、、閑話休題。

 地理学科の学生には、いわゆる鉄ちゃん、鉄オタが多い。加えて、地理学者にも、鉄の人が実は存外いる。この夏休み前、某所での地理屋さんによる某飲み会の際のことである。誰かが「ぼくは時刻表を毎月買っている」とさも当然のように宣う。すると脇から「この前、自分へのご褒美に、昔の時刻表を買いましたよ」とさりげなく返す、、、かくいう私もかつては彼らと同類であった(中学生まで)。鉄道雑誌(「鉄道ジャーナル」!)を定期購読して隅から隅まで読み、時刻表からダイヤグラムをおこしてみたり、北陸本線まででかけていって日がな列車を眺めていたり、父とレイアウトを作り鉄道模型を走らせてみたり、したものである。それも昔のこと、、、と、ある時、筋金入りの鉄の地理屋さんに、「ぼくはもう鉄は卒業しましたよ」と言うと、彼が応えるに、「それは卒業と言わない。落第だよ!」そうです、私は落第しました!

 ただ、北陸本線まで5kmほど歩いていって、雷鳥や白鳥など来る列車をドキドキしながら見ていた自分。何に心を動かされていたのか。485系やキハ82系といったハードとしての列車だけではないであろう(キハ82系は美しかった。今でも好きである。)。そうした列車が運んでくるあの山の向こうの世界、これからこの列車が向かうまだ見たこともない世界、それを列車に重ねて見ていたのはないか。未知なる世界へのあこがれ、好奇心が列車へのあこがれに転化していたのであろう。

 学問、あるいは科学。今日、とりわけ日本においては、世の中にそれがいかに役に立つのか、社会的な意義が求められる。しかし本来、それは、これを知りたい、わかりたいという人のもつ純粋な好奇心から行われる行為ではなかろうか。天文学者は、この空の向こうの世界、宇宙に思いをはせる。物理学者は、目の前の物質が一体全体、何でどのように構成されているのか知りたいと思う。翻って、地理学者は、海の向こう、山の向こうにどんな風景が、世界が広がっているのか、どんな人がどんな生活をしているのか、見たい、知りたいのであろう。そうした好奇心が地理学者をして、研究に駆り立てている。
 地理屋さんと鉄ちゃんは、見知らぬ世界へのあこがれ、好奇心をもつという点において同類ともいえよう。かくして地理学科に鉄の人がやってきて、そして、その中から地理屋さんが生まれることになる。地理屋に鉄の人が多いのも必然である。

 


 

 

2017年1月20日金曜日

境界の風景

 4年生の諸君も無事に卒業論文を提出し、後は口述試験をまつだけ。今年度もあとわずかである。学生諸君のブログは順調に更新され、彼らが国内外の様々なところにでかけ、得がたい経験をしていることがみてとれる。頼もしい限り。一方、私のブログは、半年以上、ほったらかしの体たらくである。
 先日、 大寒波が到来する中、安行から見沼にかけてエクスカーションを行った。今学期、M大学とS大学で農村地理学の非常勤をやっており、その講義の一環として実施したものである。とはいえ、M大から1名、S大から1名、ゼミ生1名、計3人、しかもそれぞれ4年生の参加のみであった。昨今の学生さんは忙しい。
 むろん、過去に何度か訪れている地域。だが、変化も著しく、時折訪れることで、新たな発見があって面白い。今回訪れた中でも、埼玉スタジアム周辺の開発が著しい。集合住宅や商業施設の立地に加え、戸建て住宅の建設も進んでいる。
 この埼玉スタジアム、実は旧浦和市の周辺、境界地帯に建設されたことは存外知られていないだろう。はずれだからこそ、開発の余地があったわけである。埼スタのすぐ東に綾瀬川が流れており、この綾瀬川は現さいたま市を構成する旧浦和市と旧岩槻市の境界をなしていた。このあたりでは、綾瀬川を渡る橋は一本しかなく、しかも車のすれ違いもままならない狭い橋しかなかったものである。それぞれの市において道路のネットワークが構築され、それぞれの市の周辺ということもあり、市と市を連結する橋や道路は建設されてこなかったといえる。それが、狭い橋も付け替えられて広くなり、新たな橋も建設され、旧岩槻市側においても宅地開発が進んでいた。合併して一つの市となることで、一体的な開発が行われるようになったわけである。
 しかし、旧岩槻市側の宅地開発の進む地区から綾瀬川に沿って少し北に進むと風景は一変する。水田の中に、鉄板の高い塀で囲まれた廃棄物処理場や資材置き場が点在する。こうした施設が立地するのも、旧岩槻市における周辺的な位置にあったからであろう。かつて、ダイオキシンで大騒ぎとなった通称「くぬぎ山」 もまた、所沢、狭山、三芳のちょうど境界地帯に位置し、産廃施設が多数立地していた。それぞれ、中心から離れた周辺だからこそあらわれる風景である。
 
 

2016年7月16日土曜日

2つの名前を持つ街

 今週末からベルギーのリェージュで開催される学会に参加するため、昨晩、リェージュに入る。国際地理学連合の本大会は4年に一度、地域会議はその間の年に開催されるが、それぞれの分野ごとに委員会があり、独自で会議を企画・開催している。私が参加するのは、Commission of the Sustainability of Rural Systems持続的農村システム委員会の会議で、農村に関心を持つ地理学者が集まってくる。研究発表の会に加えて、開催地周辺の農村を巡るエクスカーションが実施されるのもありがたい。
 今回、成田からヘルシンキ乗換で、ブリュッセル空港に到着した。空港ロビーは、銃を持つ兵士が巡回しているが、カフェでゆったりお茶を飲む人々らからは、平常そのものの雰囲気を感じる。
 ブリュッセル空港の地下に鉄道駅があり、そこからリエージュを目指す。あらかじめベルギー国鉄のサイトで切符を買うこともできたのだが、買い忘れて窓口にて購入する。ウィークエンドは安くなり、リェージュまで18.8ユーロ。もたもたしていて当初乗ろうとした列車に乗れず、時間が空く。再び、到着ロビーに戻り、携帯ショップにてベルギーのsimを購入する。1ヶ月の間、ネットを2.5GB、通話を10分できて15ユーロであり、リーズナブルな価格と言える。早速にsimフリーの携帯に差し込み、ベルギー国鉄の時刻表の確認やグーグル・マップで位置の確認をする。
 空港からリェージュまで直行する列車はなく、ルーバンという駅で乗り換えをしなくてはいけない。ルーバンで降りて、電光掲示板にて乗り換える列車の番線を探す。が、リェージュなる行き先はどこにも表示されていない!とりあえずは、ベルギー国鉄のホームページで記載されていた番線に行き、ホームの係員にたずねて、この番線でよいか確かめ、入線した列車に乗り込む。
 ベルギーは多言語国家、公式の言語境界線が引かれており、北ではオランダ語、南ではフランス語が優先される。ルーバンはオランダ語圏に位置し、地名もまたオランダ語表記をしており、フランス語圏のリェージュLiègeをオランダ語のLuikと表記していたのであった。リェージュLiègeをいくら探しても見つからないわけである。地元の人々には当然かもしれないが、旅行者には不便極まりない。多くの場合、こうした言語境界地帯においては、両言語併記とされるのが一般的であり、一方の言語しか提示されないのは珍しい。ベルギーにおける両言語の複雑な関係を物語っているとも言える。
 地名は、この地表面上のある特定の場所の位置を示すシステムの一つである。そして、この位置を示す地名の体系は、この地表面上のどこに立つか、そしてどの言語を用いるかによって異なる。日本にいて日本語で示す地名の体系と、ドイツにいてドイツ語で表す地名の体系とは違うのである。ヨーロッパの中においても、それぞれの国毎に地名の体系は異なっており、一つの国の中でも、異なる言語ごとに地名は異なることになる。
 ドイツにいたとき、駅に行って列車の行き先の看板をみて戸惑ったものである。Genfゲンフ行き、Mailandマイラント行き、っていったいどこに行くのだろう?前者はジュネーブ、後者はミラノであり、それぞれドイツ語による地名である。Pressburgはどうだった?と聞かれて、はて?と聞き直し、ブラチスラバBlatislavaのドイツ語名と知る。日本の学校教育においては、現地の読みに近いカタカナ表記をすることになっているようだが、カタカタ化し日本語風の発音をすることで、日本、そして日本語独自の地名の体系となるわけである。
 現在、日本の大学では、「グローバル化の推進」とやらで、とりわけ英語の修得を学生に求めている。その際、現地読みで覚えてきた地名を、今一度、英語で覚え直さなくてはならないこととなる。これまでドナウDonau川と習ってきたが、それでは英語圏では通じず、英語ではDanubeダニューブ川である。ドイツのバイエルンBayernは、英語では、ババリアBavariaであり、ミュンヘンMunchenは、ミューニックMunich。英語を学ぶと言うことは、英語による世界像、英語が散りばめられた世界地図を頭に描くことができるようになることでもあろう。
 


2016年6月20日月曜日

ジャパン・ネット

 先日、日本野鳥の会の方の訪問を受けた。ホームページにて、私が鳥猟について調べていることをお知りになり、関心を持たれてのことである。わざわざ来ていただいた上に、興味深いお話を聞くことができ、そしてまた、貴重な資料を見せていただけ、かつ今後も情報を提供していただけるとの由、ありがたいことである。早くまとめて成果をだしたいものである。

  その折に話題になったのが、海外における鳥猟である。実はヨーロッパでも伝統的に鳥猟が行われてきた。他の仕事でドイツやオーストリアにでかけた合間、ついでに資料を集めてきている。ヨーロッパにおいても、また、アジアにおいても日本と同じように鳥猟が禁止された後も、鳥猟が行われてきた。例えば、1979年、現EUにおいては禁止されたが、イタリア北部(ロンバルディア、エミリアロマーニャ)においては、伝統的な生業として例外的に認められてきたという。総延長約27kmの網でもって、年間4000羽(ヒバリ、ツグミ、アトリ)までのがなされてきた。それが、2014年12月2日をもって、残存していた92カ所の場が禁止となった。同年11月には、EUがイタリア政府に対して、禁止しない場合は、数百万ユーロに及ぶ罰金を課すと警告していたという(http://www.presseportal.de/pm/7154/2895923)

 野鳥の会の方によれば、海外の鳥猟で今日用いられるのが、日本から輸出されるカスミ網だという。日本では、鳥獣保護法によりカスミ網の利用はむろん、販売、所持が禁止されている。だが、闇で製造され流通しているらしい。

 さて、以下のWeltというドイツの新聞のネット版をみていただきたい。( http://www.welt.de/wissenschaft/umwelt/article115488262/Die-700-Kilometer-lange-Todesfalle-am-Mittelmeer.html 2013年4月22日)「地中海沿いの700kmに渡る死の罠」という見出しの記事で、海岸沿いに延々と続く網の写真が掲載されている。この写真を皮切りに、網にかかった小鳥や、小鳥を調理する人々の写真が続く。
 

 同記事によると、ガザ地区からリビアとの国境に至るエジプトの海岸において700kmに渡って5mの高さの網が張られ、ドイツなどヨーロッパから南の越冬地へと、また南からヨーロッパへと向かう渡り鳥が年間1千万羽近くも捕獲されているという。

 この地の鳥猟を調査してきた生物学者Holger Schulz氏へのインタビューによると、ドイツにおいて野鳥が減少してきたのは、イタリア北部における鳥猟が原因と考えられてきたが、そうではなく、どうもこのエジプトにおける鳥猟によるものらしい。夜間、地中海を渡ってきた鳥たちは、早朝、疲れて切ってエジプトの海岸に到達する。鳥は、サハラを横切る前に休息を必要とし、海岸で最初に見つけた緑に向かって下降する。そこに網が張られており、一網打尽というわけである。

鳥は珍味として食されており、マーケットでは、それなりの値段で売られている。ウズラや鳩は1羽5ユーロ、ヒバリやナイチンゲールは、2ユーロから3ユーロである。Rasheedという町のあるマーケットでは、とある一日で、1万羽に及ぶ小鳥、3千羽のウズラが売られていたという。エジプトでは、ファラオ-の時代から鳥猟が行われてきたが、今日ほど鳥猟が商業的に行われている時代はないとのこと。そしてまた、エジプトにおいて鳥猟は違法ではない。

 この記事では、こうしたエジプトにおいて鳥猟に用いられる網を"Japan-Netzen"ジャパン・ネットとして紹介されている。日本で違法に製造され輸出された網が用いられているわけであり、この網が日本からもたらされていることが広く認知されていることになる。日本の技術が、世界の人々や自然の動植物の安寧に役立つとすればうれしい限りだが、過度な鳥猟を助長し、鳥類の減少、ひいては生態系の破壊をもたらしているとすれば残念なことである。そしてまた、ジャパン・ネットとして世界に流通していることも不名誉極まりない。


 

2016年5月20日金曜日

チェーン店度:ドイツの商店街はどこも同じ?

 折に触れてドイツの街を訪れていると、その変化に気づかされる。あそこにあった模型を売るお店がなくなったり、伝統的な什器を売るお店が、モダンなデザインの食器を売るお店に変わったり、、、地場のお店がどんどん消え去り、代わって、ベネトンやらH&Mといったブランド店が、スタバやハードロックカフェといった飲食店が増えてくる。10万人規模の都市であれば、街並み、そして建築物は異なっていても、商店街に並ぶお店は金太郎飴のようにどこも同じ、という状況になりつつあるのではないか、、、
 昨年度、こうした問題意識から、M君が「ドイツ・ハイデルベルグにおける中心商業地の変容」という卒業論文を書いた。ドイツの各都市におけるチェーン店の立地状況を都市の人口規模毎に把握した上で、ハイデルベルクの中心商業地であるHauptstraßeの店舗構成をチェーン店の進出に注目し、現地調査によって明らかにしようとした力作である。
 チェーン店の進出は、ハイデルベルクにとどまらない。こうしたチェーン店の進出の度合いを、ドイツでは、Filialisierungsgrad「チェーン店度」という指標で示すことが行われている。Der Handel商業という雑誌のネット版(2011.05.18 https://www.derhandel.de/news/unternehmen/pages/Filialisten-Filialisten-draengen-in-die-Innenstaedte-7444.html)に、チェーン店がますます中心部に進出していると報じられている。
 以下が、この記事に掲載されているドイツ各主要都市におけるチェーン店度である。軒並み5割を越え、ドルトムントが74.6%と最も高い値を示しており、4分の3がもはやチェーン店となっている。この記事によると、2006年の時点からもっとも大きな変化を示したのがフランクフルトであり、2006年の50.9%から16.3ポイント増えている。フランクフルトでは、この間、ZARAやMiuMiu(Pradaの別ブランド)といったブランド店がドイツで初めて進出したという。このフランクフルトを含め、国際的なチェーン店の比率が高いのは、デュッセルドルフ、ベルリン、ハンブルクといった商業の中心としてよく知られる大都市である。


2008年の人口 国際的チェーン店 ドイツのチェーン店 地域のチェーン店 地元の店 チェーン店度2010年
Berlin 3,431,675 51,9% 13,4% 4,2% 30,5% 69,5%
Hamburg 1,772,100 47,3% 15,3% 3,4% 34,0% 66,0%
München 1,326,807 33,9% 12,7% 7,1% 46,3% 53,7%
Köln 995,420 41,4% 12,2% 6,3% 40,1% 59,9%
Frankfurt/Main 664,838 47,0% 17,7% 2,6% 32,7% 67,2%
Stuttgart 600,068 38,6% 18,0% 3,3% 40,1% 59,8%
Dortmund 584,412 43,5% 29,0% 2,2% 25,3% 74,6%
Düsseldorf 584,217 53,3% 13,1% 2,6% 31,0% 69,0%
Essen 579,759 36,1% 29,3% 2,7% 31,9% 68,0%
Bremen 547,360 41,3% 27,3% 3,5% 27,9% 72,0%
Hannover 519,619 36,2% 22,7% 5,4% 35,7% 64,3%
Leipzig 515,469 31,8% 20,1% 2,8% 45,3% 54,7%
Dresden 512,234 45,7% 21,7% 1,1% 31,5% 68,5%
Nürnberg 503,638 46,0% 20,9% 3,4% 29,7% 70,3%
Duisburg 494,048 28,1% 20,2% 7,0% 44,7% 55,3%

  興味深いことは、ミュンヘンにおいて、チェーン店度が53.7%と低く、かつ国際的チェーン店の比率も低いことである。この記事によると、ミュンヘンは特殊なケースという。ミュンヘンの旧市街は、多様な商店が立地するだけの十分なスペースがあるとともに、それらに対する高いニーズがある。したがって、国際的なチェーン店だけではなく、伝統的な家族経営の商店も成立しうるとのことである。
 はて日本において、ドイツと同じように「チェーン店度」で各都市を評価してみたら、どうだろうか?
  
 

2016年5月2日月曜日

社会主義都市、その後(1):クラクフ

 1990年代、ベルリンの壁の崩壊、そしてドイツ統一を追って、東ヨーロッパの旧社会主義国が政治経済の改革を推し進めていった。この改革を通して、第2次大戦後の社会主義時代に形成された都市や農村の特色がどのように変容Transformationしてきたのか、かっこうの研究テーマを与えてくれた。私も、プラハの街(市場経済化の進展に伴うプラハの都市構造の変化.地域研究 44:25-38.)や、ハンガリー南部の農村ハンガリー南部農村における農業生産協同組合の再編と個人農の動向.小林浩二・大関泰宏編著『拡大EUとニューリージョン』原書房,222-235.)でそうした変化を垣間見る機会をえた。大きな変革の時期を経た現在、 旧社会主義国の都市や農村は、あれからどう変わったのか、そして現在、どのような状況にあるのか、興味深い。

 2014年の夏、ポーランドのクラクフで開催された国際地理学会に参加した。クラクフはポーランド南部に位置し、1596年にワルシャワへ都が移されるまで、ポーランド王国の都が置かれた古都である。現在の人口は約76万、ワルシャワに次ぐポーランド第2位の都市であり、かつ科学技術の中心ともなっている(ちなみに、アルプス以北のヨーロッパでプラハに続いて2番目に大学が設置された街でもある。ドイツ語版Wiki)。そして、その旧市街は世界遺産にも登録されている。ちなみに、この街を最初に訪れたのは1996年のことであった。

旧市街の広場。向こうの建物が織物会館。

 2014年、クラクフの旧市街におけるメイン・ストリートや広場は多くの観光客で賑わっていた。メイン・ストリートには商店が並ぶが、それらの多くは、観光客向けの土産物屋か、ヨーロッパや世界に展開するチェーン店の支店である。ドイツやフランスなど、ヨーロッパ西部の古い町であれば減ったとはいえ存在する、入るのがためらわれるような、地場資本の重厚な衣料品店や装飾店などはない。こういっては失礼だが、旧市街の風格のある町並みに比して、そこにあるお店はどこにでもある軽いものである。経済の停滞していた社会主義時代において、いわゆる中産階級、あるいは富裕層が形成されず、彼ら向けの商店も欠落していた中で、改革以降、観光客の増大に対応して、観光客を主として相手にするような商店が中心部に進出してきたといえよう。

クラクフのメイン・ストリート
おなじみマクドナルド

ドイツ資本のドラッグストア。ドイツではどの街にもある。
旧市街にチェーン店をはじめとして商店が立地してきたとはいえ、その量も質も思ったほどではない。一方で、旧市街の外で、大型のショッピングセンターが開設されている。下の一枚目の写真は、旧市街の北東部に位置するクラクフ駅に隣接したショッピングセンターである。C&Aやカルフールなどいくつかのデパートやスーパー、SATURNといった電気製品の店に加えて、多くの小売店が入っている。そこでは旧市街に見られないような世界レベルの有名ブランドが軒を構える。また、郊外においても2枚目の写真のように巨大なショッピングセンターがいくつもある。衣料品にせよ装飾品にせよ、値の張る質の高いものは、旧市街ではなく、こうしたショッピングセンターで売買されているのではないか。この点において、ヨーロッパ西部の都市とは異なろう。

クラクフ中央駅。巨大なショッピング・センターを併設。手前が旧市街方向。駅の向こう側には、バス・ターミナルが設けられている。こうしたプランは西ヨーロッパと同じ。
旧市街から東方、Nowa Huta(「新製鉄所」という意味の街の名。この街に関しては次回)に向かう幹線道路沿いのショッピングセンター。この道路に沿って、他にもショッピングセンターがあり、また、オフィスビルの立地もみられる。

 もう一つ、ヨーロッパ西部の都市とは依然として異なる点があることに気がついた。それは、ある日、一人で夕食をとりにホテルから街に繰り出したときのことである。
  クラクフの旧市街を取り囲んでいた都市壁の一部が残り、今日、その外周を緑地帯と環状道路が走る。私は、この環状道路のすぐ外側に位置する米系チェーン・ホテルに部屋をとっていた(なぜこのホテルか?「ホテルの選択」についてはまた後日)。旧市街へ向かえば、観光客向けのレストランや飲み屋がある。が、それなりに値も張るし、一人ではつまらない。そこで、反対方向、新市街の方向へ歩いて行ってみた。地元の人が使う気軽なレストランを探してのことである。通常であれば(西ヨーロッパであれば!)、新しく形成された市街地の交通の結節点、すなわち、大きな交差点があって、バスや路面電車の乗り換え地点となっているようなところでは、スーパーやちょっとした店舗があって、レストランも数軒ある、はずである。ところが、周囲は住宅地であり、近隣のニーズに合わせて立地しているはずのものがなく、そうしたいわば小中心の形成は弱く、レストランもない。

  たまたま、訪れた旧市街から東の方向に店がなかっただけのことかもしれない。旧市街やショッピングセンターのレストランへ皆でかけるのかもしれない。が、居住者の所得水準からくる消費性向によるものとも考えられる。西ヨーロッパであれば、都心部に近い地区では、それなりに豊かな人々が居住しており、彼ら向けのレストランが成立しうる。しかし、クラクフでは、失礼な物言いかもしれないが、そうした層が同じような場所に住んでいない、あるいはそうした層がまだ厚くない、ともみてとれる。

 都市内部において、どこにどんな社会階層の人々が居住しているのか、そしてそれを背景として、どこにどんな商業・サービスの立地がみられるのか、「都市構造」とか都市の「商業構造」や「社会構造」(「構造」という言葉が地理学では安易に使われすぎている、という気がする。地理学で用いられる「構造」は二重の意味がある!)とか呼ばれるものが西ヨーロッパとは異なると思われるのである。