2016年2月16日火曜日

山とナショナリズム

 世界遺産になっているベルン旧市街の南、アーレ川を渡ったところにアルプス博物館がある。行ったことがなかったので、時間の合間に行ってみることとする。周辺は閑静な住宅街、各国の大使館や歴史博物館などもある。受付で通常の展示をみたいというと、小さい規模の特別展しかやっていないという。展示する収蔵品はたくさんあるけれども、展示スペース改修中で展示されていないとのこと。せっかく来たので、その特別展をみることにする。
 「Triglavースロベニアとその祖国の山」という展示で、実際、こぢんまりとしたものであった。 さりながら、標高2,864メートルのTriglav山は、スロベニア国民のナショナル・アイデンティティのシンボルであること、すなわち、スロバニア国民をしてスロバニアへの帰属意識を醸し出す象徴であることを示す興味深い内容である(ちなみにスイスではマッターホルンがそうであるそうな)。展示解説に沿って紹介してみよう。
  Triglavという名は、「3つの頭」という意味であり、Triglavの三峰、すなわち、スロベニアにおいて「地」、「大気」、「水」を支配する三頭の神を示しているという。山が信仰の対象として捉えられているところは日本と同様であり、「三峰」としてみられているところも秩父の三峰信仰や、富士山の三峰としての表現とも共通して面白い。
 Triglavの初登頂は1778年に遡る。19世紀、Triglavを含むジュリア・アルプスにおける登山が盛んになるが、それは主としてドイツ人登山家によるものであった。そうした中、祖国のアルプスのドイツ化を憂いたある司祭が、Triglav山頂を購入し、1895年に避難小屋(3人用)を兼ねた金属塔を建てた。その後、司祭はスロベニア山岳会に、この塔と山頂を寄付している。
 第一次大戦前、 このジュリア・アルプス周辺は、ハプスブルク帝国とスロベニアの力がせめぎ合う場であった。山頂の金属塔に置かれた、先の司祭による挨拶を含む登頂簿はスロベニア語とラテン語で書かれていたが、このことは、ドイツ語圏の山岳家のしゃくに障った。ウィーンの山岳会のメンバーは、都合2度、ドイツ語の献辞を書くことを試みている。加えて、周辺に多くの山小屋が開設されたのは、国民意識の高揚、そして領土への要求を示すものであったという。
  第一次大戦後、スロベニア領土の3分の一がイタリアの手に落ち、ユーゴスラビア(当初はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国)とイタリアの国境がTriglav山頂を走ることとなる。この山頂の国境を示す石が、ある時は数メートル、イタリア側へ、またある時にはユーゴスラビア側へ数メートル移動したという。それに合わせて、山頂の金属塔は、それぞれの国のシンボル色に塗り替えられた。
 第2次大戦後、Triglavは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の重要なシンボルとなる。国家にとって最も高い山であり、大きな意味を持つ山であった。ちなみに、山頂の金属塔は、赤色に塗られ、五星が飾られた。Triglavは、国民が一生に一度は登るべき山とされたという。
 1991年6月25日、スロバキアは独立を宣言する。Triglavの三峰は、スロベニアの国旗に描かれることとなる。スロベニアの写真家は、Triglav山頂付近をヘリコプターで飛び、新国家を具現化する山頂にはためく旗を撮影した。この写真は、独立を伝える新聞の一面に掲載されている。
  かように、Triglavは、それぞれの時代時代において、国への帰属意識を持たせ、かつ高める存在であり、また、国民を一体化する装置として用いられてきたともいえる。日本における富士山も同様の意味をもつであろう。

特別展入り口の案内掲示


Triglav山頂の金属塔のレプリカ。このグレーがオリジナル

右下。社会主義時代のTriglav山頂の金属塔

スロベニアの写真家による「Triglav山頂にはためく国旗」

スロベニア独立を伝える新聞に示されたTriglav山頂にはためく国旗


2016年2月10日水曜日

Combined Transport

  スイス航空にてチューリッヒに入る。チューリッヒ空港からベルンまで、インターシティ特急にて乗り換えなしで移動した。スイスといえば、アルプスの山で囲まれた印象だが、スイス北部は丘陵地帯であり、チューリッヒからベルンまでは、なだらかな丘陵の間を東西に流れるアーレー川に沿って列車は走る。途中は中小の都市が並び、多くの工場や郊外型のショッピングモールが次々に現れ、この区間がスイスの経済にとって重要な地帯であることがみてとれる。スイスの経済の中心軸は西はローザンヌからジュネーブ、そして東はサンクト・ガレンまで拡張してみることもできようが。途中、いくつもの大規模な操車場があり、駅には荷物の積み下ろし用プラットフォームがあったり、工場や倉庫への引き込み線があったりする。日本でもついこの間までよくみられた風景であり、鉄道による貨物輸送がスイスにおいては一定の位置を占めているとことがわかる。
 ベルン駅前のホテルに投宿。学生の時に訪れて以来なので、二十数年ぶりとなろうか。駅前には、何系統ものバスや路面電車の停留所が集約され、平面で乗り換えできるようになっている。また、駅に直結したビルに駐車場や駐輪場が設けられている。
 これらは、実はドイツなど他のヨーロッパ諸国でも同じようにみられることである。そこで実践されていることは、Combined Transport、複合輸送(この訳でよいのかわからないが)である。複合輸送とは、人や物の輸送を一つの輸送手段のみに頼るのではなく、場面場面に応じて適した輸送手段を複数用いていく、そして、複数の輸送手段の適切な接続を図っていくことである。
 飛行機が運んできた人を今度は鉄道で目的地に運ぶ。空港の集客圏、すなわち後背地は一般に広く、中長距離列車が空港からの輸送を担う。チューリッヒと同様、パリのシャルル・ドゴール空港や、フランクフルト空港に、それぞれTGV、ICEといった特急列車が乗り込んでいるのも、輸送の合理的な分担を図ろうとしていることによる。羽田空港に上野東京ライン、あるいは新幹線が乗り入れているようなものである。
 物資についても同様で、鉄道が担うに適したところは鉄道で、トラックが担うに良いところはトラックが運べばよい。この点において、スイスでは貨物輸送において、鉄道にもある重要な役割をもたせているということであろう。翻って、日本においては、かつてあった操車場や貨物用プラットフォームはものの見事に少なくなってしまった。大宮操車場はさいたま新都心として生まれ変わり、高層ビルが立ち並ぶ。東京のもつ機能の一部を担う場所となっているが、ほかの使い方があったかもしれない。
  ドイツなどヨーロッパでは、エコ!な意識が高まり、公共交通機関へと一方的に移行しつつあるという印象をもっている人も多いかもしれないが、実はそうでもない。自家用車の利用を全く妨げているわけでもないし、自家用車が担うべき個所もそれなりに位置づけられており、したがって、駅に直結して駐車場が設置されているわけである。加えて、自転車も自転車で一つの輸送手段として複合輸送の中で位置づけられ、鉄道など他の輸送手段との合理的な接続が試みられている。
 飛行機、鉄道、自動車、バス、路面電車、自転車、これら輸送手段の合理的な分担、そして接続、すなわち複合輸送が、スイスのみならずヨーロッパにおいて図ろうとされているわけである。 そこでは、輸送あるいは交通がトータルに捉えられおり、ある場所に住む人が、別のある場所に移動する合理的な手段を確保しようと試みられている。ヨーロッパにおいて、人々に移動手段を提供するのは、ガスや電気、水道などを提供すると同じことなのである。
 

チューリッヒ空港駅にて

ベルン駅前の停車場。いわゆるトランジット・モール?

駅直結の駐車場と駐輪場入り口

駅駐車場入り口

駅駐車場構内

おまけ。ベルンの街。

2015年11月1日日曜日

ハロウィーン

 本日はハロウィーン。まだ、渋谷の街も大騒ぎなのでしょうな、、、。ハロウィーンは、元来、現在のヨーロッパの先住民族ともいえるケルト人によって、1年(あるいは夏)の終わり(10月31日)に収穫を祝い、来たるべく冬の悪霊を追い払うという祭である(Wikiほか)。悪霊から身を守るために、仮面を被り、火を焚いたという(Wiki)。これが現在行われるところの仮装、そしてカボチャの提灯(ジャック・オー・ランタン)になったということであろう(カボチャはアメリカ原産で、そもそもケルト人が大陸ヨーロッパに居住していた頃にはなく、当初はビート(カブ)を用いていたらしい)。
  今日、ハロウィーンは、アイルランドをはじめ英語圏で主として行われる行事である。それが英語圏以外の国々に、商業主義に乗っかって広まっているともいえる。英語圏ではないドイツでも、かつてはみれらなかったことだが、スーパーにこの時期、カボチャが並ぶようになっている。実は、ドイツには似たような行事がある。11月11日に行われる「聖マルチンの提灯行列」である。聖マルチン(316-397年)は、フランク王国にてキリスト教の伝道・布教に努め、初めて修道院を建設したという。植物、動物など自然の事物の言葉を理解し、したがって、悪魔を追い払うことができ、家畜の守り神として信仰された。この11月11日は、収穫が終わって冬が始まる時期、借金を清算し、雇用関係も更新する時であった。提灯をもった子供らが家々の前で歌を歌うと、家人が、お菓子やパン、果物などを与えるという。ケルト、そして英語圏のハロウィーンとまさに同じである。
 この「聖マルチンの提灯行列」が行われる11月11日は、ゲルマン民族にとって彼らの神ヴォーダンを祀る収穫祭の日でもあるとのこと。このように、いわば土着の宗教行事がキリスト教の行事に取り込まれていった例は数多い。では、ケルト民族のハロウィーンとゲルマン民族のヴォーダンの祭は、どう関連するのか、しないのか、、、、、?

参考文献
山本 充 2006. 森林からみたヨーロッパ文化. 菊地俊夫・犬井正編著『森を知り 森に学ぶ』二宮書店,25-34.
山本 充 2006. ヨーロッパの森と人々の生活. 菊地俊夫・犬井正編著『森を知り 森に学ぶ』二宮書店,94-100.

ドイツN小学校における聖マルチン祭

学校の中を提灯行列


2015年10月12日月曜日

軽井沢(2)

 追分宿を通り、御代田へ向かう。町の南、山の中腹にデベロッパーによって開発された別荘地がある。門があって、関係者しか入ることができない、いわゆるgated communityとなっている。以前にこのデベロッパーの方に話を聞いたことがある。別荘の購入はイメージされるような経営者や重役など一部富裕層だけではなく、今日、ごく普通の人も購入しているとのこと。別荘の利用も、週末や、夏季の間、あるいは定住と多様な形態をとっているという。別荘地の中で、テニスなどのサークルがあったり、バーベキュー大会や花火大会が開かれたりもする。一方で今日、別荘地の一部で、短期宿泊用の貸別荘が開設されているという現実がある。

 御代田から国道18号に入って、そのまま碓氷バイパスを下る。最後の目的地である安中榛名駅前に到着した頃には、あたりは既に暗くなっていた。新幹線安中榛名駅の開業を契機として、JR東日本が開発した「びゅうヴェルジェ安中榛名」と称する住宅地区であり、「定住型リゾートシティ」を標榜する。ここにおいて、かつてS大学のT君が、「安中榛名駅周辺における宅地開発の現状と住民の意識」(平成20年)という卒論を書いた。彼はポスティングによるアンケート調査を行って、非常によいサンプルをとることができたことに加えて、自由回答欄における記述をテキストマイニング・ツールを使って解析している。なかなかによくできた論文であった。真っ暗な中、街灯の下で、彼の卒論に基づき、回答者の4割が60歳以上、4分の1が50歳以上であり、夫婦のみが5割強を占めること、職業をみると、無職が36%、専門職・技術職が20%、管理職が15%と上位3位をなしていることを話す。定年後の移住者が多く、また、有職者においては、専門職、管理職が多いという興味深い結果である。彼らは、東京や埼玉など首都圏から主として移住してきており、その転居理由は、第一に、「周囲の自然環境の良さ」(77%)、「新幹線の駅が隣接しているから」(62%)、「ゆったりとした生活ができるから」(41%)、「東京からあまり離れていないから」(32%)と続く。自然の中におけるスローな暮らしを求める一方で、東京とのアクセスもまた重要なのである。まだまだ興味深い結果があるのだが、暗闇の住宅地を怪しく回って駅に戻る。彼ら2人には、安中榛名駅から新幹線で東京へ向かってもらう。一人、高崎駅東口までレンタカーを運転し、営業所で返却。駅ビルのフードコートのM製麺にて夕食をとり、新幹線に乗り込む、、、




 



 

 

2015年10月11日日曜日

軽井沢(1)

イギリスL大P氏、S大I氏とともに軽井沢エクスカーション。軽井沢は久しぶり。P氏は、ルーラル・ジェントリフィケーションをテーマとして精力的に仕事をしており、現在、日本のルーラル・ジェントリフィケーションの実態や研究を探索するためにS大に滞在中。私自身もルーラル・ジェントリフィケーションをテーマとし、かつ軽井沢をフィールドとし、また、4年前にイギリスに行ったときにお世話になったこともあって、今回、軽井沢を案内することとなったわけである。

大宮駅から新幹線。連休の中日だが、むろん座れない。デッキに立って10時過ぎに軽井沢着。中高年の女性を中心として多くの乗客が軽井沢で降りる。新幹線、そして高速道路によって、もはや首都圏からの日帰り観光地となっている。改札口で、P氏、I氏とおちあい、日帰り客の目的地のひとつである南口のアウトレットをのぞく。北口駅前でレンタカーを借りて、旧軽へ。旧軽銀座、森ノ美術館裏手の駐車場に車を停める。近くには、軽井沢で日本人初の別荘。海軍大佐八田裕二郎によるもの。駅から旧軽へと続く道は大勢の人が歩く。フランス語名のケーキ屋や、ドイツ語名のソーセージ屋、、、P氏は笑いながら写真を撮る。夏のピークの時ほどではないが、人でごった返している。江戸時代には、江戸と京を結ぶ中仙道が整備され、軽井沢はその宿場町であったこと、明治になっていわゆるお雇い外国人が多数、日本にやってきたが、彼らにとって蒸し暑い東京の夏は耐えがたく、ここ高原の軽井沢を避暑地にしたこと、彼ら外国人が来ることで、宿場町の人々が旅館をホテルにしたり、パンやジャムなど彼らの嗜好に合った商品を売る店を始めたこと、、、などなど例によって怪しい英語で説明しながら、宿場のはずれ、ショーハウスへ。軽井沢で最初に別荘を建てたカナダ人がショーであった。元来、街道沿いにあった場所から奥まったところに、彼の別荘を再現したものものである。帰りは、南の横道に入り、軽井沢テニス倶楽部のコートの脇を通って駐車場に戻る。

このテニスコートで、現在の天皇陛下が皇太子時代、現在の皇后様と出会われ、そしてご結婚された。ということで、軽井沢に大いに脚光が浴び、多くの観光客が訪れるようになった。これが軽井沢の大衆観光化の始まりといわれる。次いで、1980年代後半のバブル経済期、いわゆるリゾート法の制定もあいまって、開発の波は軽井沢にも及び、リゾートマンションの建設など観光開発が進展する。そして、1998年の長野オリンピックを睨んだ上信越自動車道と北陸新幹線の開設によって首都圏とのアクセスが格段に向上したことで、さらなる観光の進展をみた。

 さて、再び車に乗って、愛宕山の西麓、最も早くに別荘開発が進んだ地区に出向く。別荘一戸当たりの敷地も広く、瀟洒な、そして豪華な建物も多い。更新も進んでいて、現代的な建築もみられる。写真を撮りつつ、重文の旧三笠ホテルまでいって引き返し、中軽井沢に向かう。途中、これでもかというくらいのフランス料理やイタリア料理のレストランを目にし、スーパーTSURUYAやセブンイレブンに入って品揃えのよさをみてもらう。ちなみにセブンイレブンで7,8千円のワインをおいているのは軽井沢をおいてないのではなかろうか。軽井沢では、東京と同等の消費生活が可能なのである。星野リゾート、ホテルブレストンコートを経て、千ヶ滝地区に向かう。ここは、大正期より今日まで、西武グループによって別荘開発が進められたところであり、その規模の大きさにP氏も驚いている。東京を控えているだからこそですよ、と応える。販売・管理事務所の方によると、この地区で、200人程度の人が定住してるそうである。今売り出し中のところは、この地区の西、森に囲まれた別荘という従来の軽井沢のイメージとは違った開放的な別荘地、人気も上々とのこと。買えるわけでもないのにパンフレットをもらう。



我々はさらに西へ、追分へと車を走らせる。追分は中仙道と北国街道の分岐に位置した宿場町。実は軽井沢よりも大きな宿場町であった。ここに友人が別荘をもち、ちょうどこの週末に来ているというのでアポをとっており、訪れる。初の訪問だが、周辺の環境も建物の内外の様子もなかなかによい。コーヒーとお手製ケーキをご馳走になりつつ、別荘購入の経緯や別荘の使い方などP氏に説明してもらう。

軽井沢は、霧が多い。つまり湿気が多い。苔むした地に別荘が建つ風景は軽井沢ならでは、である。軽井沢から西へ、この追分、そして御代田へと行くに従って、より乾燥してくる。軽井沢の湿気を嫌う人は、この軽井沢の西の地区にやってくることになる。加えて、観光シーズン期の軽井沢の街中の渋滞はものすごいもので、そうした喧噪を嫌い、静かな環境を求める人らが、このあたりにやってくるわけである。「やってくる」というのは、別荘を買って一時的に訪れることとともに、定住することも意味する。

2015年10月9日金曜日

落語

 我々の世代の若かりし頃、ドライブと言えば、ユーミンとか稲垣とかが定番(人によってはオフコース。オフコースなんていい年をしてめめしい、と思っていたが、いい年をしてあんな風にジタバタするのが人生なのだと、いい年になって思う。)。そして今、いい年になって車に乗って聴いているのが落語である。
  落語と言えばまず笑い、滑稽話であろう。かつて読んだ井上ひさしの「ブラウン監獄の四季」。彼が、NHKの仕事をしていたころのエピソードを綴ったエッセーで、クスッと笑ってしまう、とても面白い本である。この本の中に、今で言う「お笑い」の台本を作る中で、どうしたら笑ってもらえるか悶々と考えたという話がある。それによると、笑いを誘うひとつに「なぞりと失敗」があるという。ある人が何かをやる。それをまねして他の誰かが同じことをやってみるが、そこで失敗する、、、ここに笑いが生まれる。ドリフターズを例に出していて、ドリフのメンバーが同じことを次々やっていく中で、一人が違うことをしたり、失敗したりすることで、どっと沸くことになる。
  落語の笑いの多くも実はこれである。ご隠居に教えられたように熊さんがやって失敗する、という話。よく知られた「時そば」がまさにこれに当たる。「お化け長屋」は、同じ物言いに対して、異なる人が異なる反応をする話であり、同じ質の笑いである。
 加えて、「コミュニケーション・ギャップ 」。「百川」や「金明竹」などがこれに当たる。方言を十分理解できずに違う意味で捉えて、間違いが起きるわけである。漫才においても、ぼけとつっこみがつくる同じようなコミュニケーションのズレが笑いを誘うといえる。
 「なぞりと失敗」であれ「コミュニケーション・ギャップ」であれ、調和的に整然と進行するはずの行動や会話において生じるズレが笑いを誘う。このことは洋の東西、時代を問わず同じではなかろうか。落語は、普遍的な笑いを提供してきたといえるだろう。したがって、落語を、たとえば英語に訳したとして、英語圏の人々に笑いをもたらすことができる。(はて現在の日本のテレビの「お笑い」はそんな普遍性を有しているだろうか?)
  一方で、人情ものの落語はまた、人の生き方の手本、道徳、倫理もまた伝えてきたといえよう。「井戸の茶碗」のように正直、実直であることや、「芝浜」にみられるまじめに働くことの大切さ、「文七元結」における自分の身を削っての人助け、、、江戸時代に成立したとされる落語は、当時において良しとされる生き様、価値観を反映し、かつそれを人々に伝え広めてきたともいえる。今日においても落語の人情話を聞いて共感できるのは、当時の人々と同様の価値観を共有しているからであろう。そしてそれは、日本固有のものであろうか、あるいは普遍的なものであろうか?
 明日は出勤日。さて、何を聴いて参ろうか、、、



2015年6月4日木曜日

川崎エクスカーション(4)

 京急川崎駅から大師線に乗車する。列車は多摩川にほど近いところを東に進む。沿線には大小の集合住宅、大型店舗、やがて左手に工場、味の素である。鈴木町駅の出口、すなわち味の素の工場入り口には、工場見学のお誘い。今や流行の産業観光というわけである。我々は、次の川崎大師駅で下車する。京急はこの大師線を皮切りに路線を延ばしていった歴史を有しており、川崎大師駅前には、京急発祥の地を示すモニュメントがある。川崎大師駅を背にして、参道を東へ向かって歩く。広い参道にはところどころにくず餅やまんじゅうの店があるが、人もまばらで、門前町というには少し寂しい。肝心のお寺も前方にはみえない。やがて右手に寺の塀があらわれるが、入り口がない。塀に沿ってしばらく行ってようやく右手にむかう道があり、そこを折れて西に折り返すと仲見世通り、山門が顔を出す。仲見世には、飴を切る音、そして飴を売る声が響く。飴を売る店に加えて、くず餅やだるまを売る店が並ぶ。いかんせん土曜というのに、参詣の客も少なく賑わいに欠ける。山門をくぐり、境内に入る。本堂に加えて、五重塔などの建築物が広い境内に点在する。手水舎もあって、清める、って、はて、ここはお寺ではなかったか?神社ならではと思っていたが、寺にもあるのですな。本堂でお参りをしていると、隣で手をたたく音が、、、はて、ここはお宮さんか、、、。「神様、仏様」というように、日本人は、神様も仏様も区別せず同じように考えてきた。かつて、伊勢神宮にお参りした折に、隣で手を合わせていたおばあさんが、「ナムアミダブ、ナムアミダブ」と唱えていたことに驚いたものである。まさに日本人の宗教観を示している。

 川崎大師と言えば、「厄除け」、神奈川在住でもないのに、そういう認識があるのは、あちらこちらで、その宣伝を目にしていたからであろう。川崎大師と言えばまた、「初詣」。これもまた、宣伝を見たり聴いたりした記憶がある。なんでも、初詣が、氏神様など地元の地元の神社仏閣で行うものであったところに、電車で遠出して詣るようなスタイルは、この川崎大師が最初であるという(Wiki)。宗教施設によるマーケティングは、何も新しいものではなく、江戸時代にも行われていたようである。2年前に、三木一彦氏の近世三峰信仰に関する講演を聴く機会があった。御師によって関東一帯で信者獲得のための活動が行われており、江戸時代において既に今日と同じように、マーケティング、営業が行われていたようなものである、と思ったものである。川崎大師も、鉄道の敷設など時代の変化に対応したマーケティングを行いつつ、参詣客を維持してきたのであろう。

  川崎大師からの帰りは裏口からでて、格子状の区画をもつ戸建てが主の住宅地を駅へと進む。川崎大師駅から臨港バス「川23」川崎駅前行きバスに乗車、桜本で下車する。カラー煉瓦を敷き詰めた桜本商店街を西方に行く。スーパー、惣菜屋、衣料品店など個人商店が並ぶ近隣商店街。その中に、韓国食材店や、チマチョゴリのイラストを掲げた焼き肉店があり、街角にハングルで書かれたタウン誌が置かれている。このタウン誌「生活情報新聞ハント2015年5月号」は、新大久保の地図が掲載されるなど都内の情報が多く、この地域一帯のためだけの情報誌ではない。記事には、韓国との輸送業務や航空券の宣伝、あるいはまた、日本語教室、韓国語教室の宣伝があったりする。そしてまた不動産情報も載っている。これらはどのような人々を対象としたものだろう。いわゆるニューカマーと呼ばれる人々向けか?商店街を過ぎてしばらくして左に折れる。一直線の通りの入り口にはゲートがあり、KOREA TOWNと表示されている。川崎市観光協会のホームページには、「数多くの焼肉店や韓国食材店が並ぶコリアタウンは、地元ではセメント通りと呼ばれて愛されています。」とある。しかしながら、通りを歩いても、近年、更新されたと思しき2階建てないし3階建ての戸建住宅が並ぶだけで、一向に、韓国食材店も焼肉屋も現れない。これには学生らも拍子抜け。この通りの終わり、産業道路にでるところの両側に大きな焼肉店があった。

 産業道路は片側三車線で、その上には首都高横羽線が走る。土曜日にも関わらず、多くのトラック、乗用車が行き来する。京浜工業地帯の大動脈ならでは。産業道路に沿って西に向かう。産業道路沿い右手は、自動車修理工場やスクラップ工場など、中小の企業が並ぶ。その奥は住宅街である。一方、左手、道路の向こうは工場らしき大きな建物。歩道脇には缶やボトルなどのごみの散乱がみられる。
 鋼管通りで左に折れて浜川崎駅へと向かう。鋼管通は地名であり、日本鋼管(現JFEスチール)にちなむ。先の小川(2003)によると、日本鋼管は1912年に設立され、ここ川崎の臨海部、若尾新田において1914年に操業を開始したという。駅への道すがら、Thinkという看板を目にする。これだけでは何が何だかわからない。何でも、元々は、JFEスティールの研究開発拠点であった施設を、川崎市と提携して、川崎市第3のサイエンスパークとして、入居者を募っているところであるらしいThinkホームページ)。この臨海部においてもまた、研究開発の拠点がつくられているわけである。一方、近隣の大島新田では、1917年に浅野セメントが操業し始める。この浅野セメントの創始者、浅野総一郎は、1912年に鶴見埋立組合を創設し、1914年から沿岸の浅瀬の埋め立てを開始して、1928年までに約500haの新たな用地を得たとのことである。

 まさに工業地帯にいると思わせる雰囲気が漂うJR浜川崎駅から鶴見線にて、そうした埋め立て地のひとつ、扇町へと。週末でもあり、車内は閑散としている。少ない乗客らは、扇町駅に到着すると、カメラを取り出し、駅や車両や、そこにいる猫を撮り始める。かくいう私は、川崎ではなく横浜になるが、海芝浦駅へ行こうと提案したが、同行の学生のほとんどが既に行ったことがあり、「何しに行くんですか?」と即座に却下されたのであった!扇町駅前は、商店街もなく戸建てもほとんどなく、駐車場、空き地が目立つ殺風景な雰囲気。扇町は、埋立地ではあるが、運河で囲まれ島状になっている。そして、そこには昭和電工(元昭和肥料)や、JR東日本の発電所、三井埠頭といった港湾施設が立地している。週末ともあって人通り、車の往来もなく閑散としているが、平日は活気のある様をみることができるのだろうか。最近は、「工場萌え」とか言って、工場の風景を好み見に来る人らがいるという。また、企業側も生産などの現場を積極的に解放して見せようとする傾向にある。加えて、 産業の進展を支えてきた施設や道具を、産業遺産や近代化遺産として、保存し、かつ開放しようという動きもあり、川崎市でも産業遺産・散策マップを作り公開している。この扇町にもその対象がいくつもある。「工業」にこれまでとは180度異なる価値が見いだされたともいえるが、工業化の初期においては、煙を吐き出す工場は、進歩やダイナミズムの象徴であったわけで、実のところグルリと元に戻っただけのことかもしれない。

  三井埠頭から臨港バス・川22にて川崎駅前へと戻り、解散。数人にてチネチッタ通りに戻り、ビールを飲む。