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2016年5月20日金曜日

チェーン店度:ドイツの商店街はどこも同じ?

 折に触れてドイツの街を訪れていると、その変化に気づかされる。あそこにあった模型を売るお店がなくなったり、伝統的な什器を売るお店が、モダンなデザインの食器を売るお店に変わったり、、、地場のお店がどんどん消え去り、代わって、ベネトンやらH&Mといったブランド店が、スタバやハードロックカフェといった飲食店が増えてくる。10万人規模の都市であれば、街並み、そして建築物は異なっていても、商店街に並ぶお店は金太郎飴のようにどこも同じ、という状況になりつつあるのではないか、、、
 昨年度、こうした問題意識から、M君が「ドイツ・ハイデルベルグにおける中心商業地の変容」という卒業論文を書いた。ドイツの各都市におけるチェーン店の立地状況を都市の人口規模毎に把握した上で、ハイデルベルクの中心商業地であるHauptstraßeの店舗構成をチェーン店の進出に注目し、現地調査によって明らかにしようとした力作である。
 チェーン店の進出は、ハイデルベルクにとどまらない。こうしたチェーン店の進出の度合いを、ドイツでは、Filialisierungsgrad「チェーン店度」という指標で示すことが行われている。Der Handel商業という雑誌のネット版(2011.05.18 https://www.derhandel.de/news/unternehmen/pages/Filialisten-Filialisten-draengen-in-die-Innenstaedte-7444.html)に、チェーン店がますます中心部に進出していると報じられている。
 以下が、この記事に掲載されているドイツ各主要都市におけるチェーン店度である。軒並み5割を越え、ドルトムントが74.6%と最も高い値を示しており、4分の3がもはやチェーン店となっている。この記事によると、2006年の時点からもっとも大きな変化を示したのがフランクフルトであり、2006年の50.9%から16.3ポイント増えている。フランクフルトでは、この間、ZARAやMiuMiu(Pradaの別ブランド)といったブランド店がドイツで初めて進出したという。このフランクフルトを含め、国際的なチェーン店の比率が高いのは、デュッセルドルフ、ベルリン、ハンブルクといった商業の中心としてよく知られる大都市である。


2008年の人口 国際的チェーン店 ドイツのチェーン店 地域のチェーン店 地元の店 チェーン店度2010年
Berlin 3,431,675 51,9% 13,4% 4,2% 30,5% 69,5%
Hamburg 1,772,100 47,3% 15,3% 3,4% 34,0% 66,0%
München 1,326,807 33,9% 12,7% 7,1% 46,3% 53,7%
Köln 995,420 41,4% 12,2% 6,3% 40,1% 59,9%
Frankfurt/Main 664,838 47,0% 17,7% 2,6% 32,7% 67,2%
Stuttgart 600,068 38,6% 18,0% 3,3% 40,1% 59,8%
Dortmund 584,412 43,5% 29,0% 2,2% 25,3% 74,6%
Düsseldorf 584,217 53,3% 13,1% 2,6% 31,0% 69,0%
Essen 579,759 36,1% 29,3% 2,7% 31,9% 68,0%
Bremen 547,360 41,3% 27,3% 3,5% 27,9% 72,0%
Hannover 519,619 36,2% 22,7% 5,4% 35,7% 64,3%
Leipzig 515,469 31,8% 20,1% 2,8% 45,3% 54,7%
Dresden 512,234 45,7% 21,7% 1,1% 31,5% 68,5%
Nürnberg 503,638 46,0% 20,9% 3,4% 29,7% 70,3%
Duisburg 494,048 28,1% 20,2% 7,0% 44,7% 55,3%

  興味深いことは、ミュンヘンにおいて、チェーン店度が53.7%と低く、かつ国際的チェーン店の比率も低いことである。この記事によると、ミュンヘンは特殊なケースという。ミュンヘンの旧市街は、多様な商店が立地するだけの十分なスペースがあるとともに、それらに対する高いニーズがある。したがって、国際的なチェーン店だけではなく、伝統的な家族経営の商店も成立しうるとのことである。
 はて日本において、ドイツと同じように「チェーン店度」で各都市を評価してみたら、どうだろうか?
  
 

2016年5月2日月曜日

社会主義都市、その後(1):クラクフ

 1990年代、ベルリンの壁の崩壊、そしてドイツ統一を追って、東ヨーロッパの旧社会主義国が政治経済の改革を推し進めていった。この改革を通して、第2次大戦後の社会主義時代に形成された都市や農村の特色がどのように変容Transformationしてきたのか、かっこうの研究テーマを与えてくれた。私も、プラハの街(市場経済化の進展に伴うプラハの都市構造の変化.地域研究 44:25-38.)や、ハンガリー南部の農村ハンガリー南部農村における農業生産協同組合の再編と個人農の動向.小林浩二・大関泰宏編著『拡大EUとニューリージョン』原書房,222-235.)でそうした変化を垣間見る機会をえた。大きな変革の時期を経た現在、 旧社会主義国の都市や農村は、あれからどう変わったのか、そして現在、どのような状況にあるのか、興味深い。

 2014年の夏、ポーランドのクラクフで開催された国際地理学会に参加した。クラクフはポーランド南部に位置し、1596年にワルシャワへ都が移されるまで、ポーランド王国の都が置かれた古都である。現在の人口は約76万、ワルシャワに次ぐポーランド第2位の都市であり、かつ科学技術の中心ともなっている(ちなみに、アルプス以北のヨーロッパでプラハに続いて2番目に大学が設置された街でもある。ドイツ語版Wiki)。そして、その旧市街は世界遺産にも登録されている。ちなみに、この街を最初に訪れたのは1996年のことであった。

旧市街の広場。向こうの建物が織物会館。

 2014年、クラクフの旧市街におけるメイン・ストリートや広場は多くの観光客で賑わっていた。メイン・ストリートには商店が並ぶが、それらの多くは、観光客向けの土産物屋か、ヨーロッパや世界に展開するチェーン店の支店である。ドイツやフランスなど、ヨーロッパ西部の古い町であれば減ったとはいえ存在する、入るのがためらわれるような、地場資本の重厚な衣料品店や装飾店などはない。こういっては失礼だが、旧市街の風格のある町並みに比して、そこにあるお店はどこにでもある軽いものである。経済の停滞していた社会主義時代において、いわゆる中産階級、あるいは富裕層が形成されず、彼ら向けの商店も欠落していた中で、改革以降、観光客の増大に対応して、観光客を主として相手にするような商店が中心部に進出してきたといえよう。

クラクフのメイン・ストリート
おなじみマクドナルド

ドイツ資本のドラッグストア。ドイツではどの街にもある。
旧市街にチェーン店をはじめとして商店が立地してきたとはいえ、その量も質も思ったほどではない。一方で、旧市街の外で、大型のショッピングセンターが開設されている。下の一枚目の写真は、旧市街の北東部に位置するクラクフ駅に隣接したショッピングセンターである。C&Aやカルフールなどいくつかのデパートやスーパー、SATURNといった電気製品の店に加えて、多くの小売店が入っている。そこでは旧市街に見られないような世界レベルの有名ブランドが軒を構える。また、郊外においても2枚目の写真のように巨大なショッピングセンターがいくつもある。衣料品にせよ装飾品にせよ、値の張る質の高いものは、旧市街ではなく、こうしたショッピングセンターで売買されているのではないか。この点において、ヨーロッパ西部の都市とは異なろう。

クラクフ中央駅。巨大なショッピング・センターを併設。手前が旧市街方向。駅の向こう側には、バス・ターミナルが設けられている。こうしたプランは西ヨーロッパと同じ。
旧市街から東方、Nowa Huta(「新製鉄所」という意味の街の名。この街に関しては次回)に向かう幹線道路沿いのショッピングセンター。この道路に沿って、他にもショッピングセンターがあり、また、オフィスビルの立地もみられる。

 もう一つ、ヨーロッパ西部の都市とは依然として異なる点があることに気がついた。それは、ある日、一人で夕食をとりにホテルから街に繰り出したときのことである。
  クラクフの旧市街を取り囲んでいた都市壁の一部が残り、今日、その外周を緑地帯と環状道路が走る。私は、この環状道路のすぐ外側に位置する米系チェーン・ホテルに部屋をとっていた(なぜこのホテルか?「ホテルの選択」についてはまた後日)。旧市街へ向かえば、観光客向けのレストランや飲み屋がある。が、それなりに値も張るし、一人ではつまらない。そこで、反対方向、新市街の方向へ歩いて行ってみた。地元の人が使う気軽なレストランを探してのことである。通常であれば(西ヨーロッパであれば!)、新しく形成された市街地の交通の結節点、すなわち、大きな交差点があって、バスや路面電車の乗り換え地点となっているようなところでは、スーパーやちょっとした店舗があって、レストランも数軒ある、はずである。ところが、周囲は住宅地であり、近隣のニーズに合わせて立地しているはずのものがなく、そうしたいわば小中心の形成は弱く、レストランもない。

  たまたま、訪れた旧市街から東の方向に店がなかっただけのことかもしれない。旧市街やショッピングセンターのレストランへ皆でかけるのかもしれない。が、居住者の所得水準からくる消費性向によるものとも考えられる。西ヨーロッパであれば、都心部に近い地区では、それなりに豊かな人々が居住しており、彼ら向けのレストランが成立しうる。しかし、クラクフでは、失礼な物言いかもしれないが、そうした層が同じような場所に住んでいない、あるいはそうした層がまだ厚くない、ともみてとれる。

 都市内部において、どこにどんな社会階層の人々が居住しているのか、そしてそれを背景として、どこにどんな商業・サービスの立地がみられるのか、「都市構造」とか都市の「商業構造」や「社会構造」(「構造」という言葉が地理学では安易に使われすぎている、という気がする。地理学で用いられる「構造」は二重の意味がある!)とか呼ばれるものが西ヨーロッパとは異なると思われるのである。
 



2016年4月2日土曜日

ショッピング・センター「ハル・イン・チロル」

 インスブルックの隣り、列車で10分ほどのイン川沿いにHall in Tirolハル・イン・チロルという街がある。人口1万3千人ほどの小さな街ではあるが、かつてチロルにおいては、現在の中心都市インスブルック以上に極めて重要な都市であった。
 このハル・イン・チロルの地名の初出は、1256年である。ハルHallはHalに由来し、塩水泉や岩塩坑を意味する(ザルツブルク近くのハルシュタットHallstadtも同じ意)。当時、塩の産出がこの地の重要な生業であり、製造された塩は、ドイツのライン地方やシュバルツバルト(黒い森)地方、そしてスイスへ移出されたという(http://www.hall-wattens.at/de/hall-tirol.html)。岩塩坑というと、塩の塊を切り出していく、というイメージをもつが、実はそうではない。塩分を多く含んだ地層から流れ出る塩水を集めて、それを煮出して塩とする(従って、塩の生産には燃料とする大量の木材が必要であった)。
 1302年には、オットー公により、ハルは、インスブルックと同等の自治権を与えられ、その後、チロル北部で最大規模の旧市街を有するようになる。その後、1477年になって、チロル南部のメランMeran(高級保養地として知られる)から硬貨鋳造所が移転する。この鋳造所は1809年に閉鎖されるが、1975年、硬貨博物館において、鋳造が再開され現在に至る。そこでは、オリンピック記念硬貨や、ハル・タラーHaller Taler500年記念硬貨などがつくられた。このタラーは、1486年にハルで初めて製造された硬貨であり、それは広くヨーロッパに流通し、Dollarすなわちドルの語源ともなった。
 このように、塩の生産、硬貨の製造で重要な街であったが、ハプスブルク家マクシミリアン1世が、インスブルックに都を置くことで、チロルの中心はインスブルックとなっていく。今日、人口12万のインスブルックに対して、その10分の1しかないハル・イン・チロル、しがない田舎町になりさがったと思いきや、どっこい生きている!
 どういうことか、下のパンフレットをみていただきたい。表紙には「ショッピング・センター・ハル旧市街」と称されている。すなわち、街全体をショッピング・センターに模しているわけである。4月29日のブログで、「街全体がアウトレット・モール」として、ドイツの一つの街をアウトレット・モール会社がモール化している例を紹介したが、ここハルでは、既存の街全体を自ら一つのショッピング・センターとしてアピールしようとしている。2枚目の裏表紙は、よくある街の鳥瞰であり、観光名所を示しているが、3枚目は、ハルの街におけるカフェ、レストランなど飲食できるお店を示している。そして4枚目は、衣料品店や日用雑貨店を示す。まさに、屋内のショッピング・モールで配布されるパンフレットではないか! 

パンフレットの表紙 http://www.haller-kaufleute.at/

裏表紙:見どころ

カフェ、バー、ホテル、レストラン

衣料品店、日用雑貨店、書店
  このパンフレットをみると、それぞれの商店が中心の通りに集中して立地しているのではなく、街中に広く分散していることがわかる。実際、下の写真のように、横町にもブティックや工芸品店、レストランがみられる。しかも、それらの多くは新しく、近年、新規に立地したと見てとれる。こうした新規立地とともに、建物の改修も進み、いわゆるジェントリフィケーションが進行していると理解できよう。
 ハルは、こぢんまりとした中世の街をさながら一つのショッピング・センターとして機能させているかのようである。中世の町並みをそぞろ歩きながらのショッピング、、、それは屋根の下のショッピングにはない魅力であり、郊外型のショッピングセンターが増えるチロルにおいても、競争力があるのかもしれない。


ハルの町並み。イン・ザルツァッハ様式の建物が並ぶ。




広場では、週末に市が開かれる。ブラスバンドの生演奏も。



横町にある改修された衣料品店。

やはり横町のイタリアン。




2016年2月29日月曜日

田舎のショッピング・センター

 日本の話である。去る正月、実家に帰った折に、最近、改修されたという某大手ショッピング・センターにお酒を買いにでかけた。お酒の販売コーナーに行って驚いたのは、その規模、品揃えの豊富さ!地元の地酒は各種そろっているし、ワインも産地別に各種集められている。その上、試飲コーナーまで設けられている。こんな田舎で、世界中のワインが買えて、そして飲めるとは、、、。
 別の日、やはり最近できて話題となっているアウトレット・モールとやらに運転手としてでかけた。アウトレットとはいえ、日本や世界のよく知られた高級ブランドの店が並ぶ。ここでも、こんな田舎で、、、と、何もなかった一昔前を思うと、感慨深いものがあった。
 これまでであれば、より大きな街にでかけていかなくては手に入らなかったものが、すぐそこで買うことができる、そんな状況が生まれつつあるのではないか、と思う。田舎でも、大都市と遜色ない消費生活が可能になっている。既存の商店街の衰退をもたらすものとして、こうしたショッピング・センターは批判の対象となることも多いが、一方で、地方に住む人にも、これまで縁遠かったモノやサービスにアクセスする機会を提供していると評価できるかもしれない。それは同時に、コンビニの提供するボージョレー・ヌーボーや恵方巻きにみられるように、消費の平準化、画一化を伴ってもいるわけだが。
 いずれにせよ、こうした状況は、田舎に住む人にとっては便利になったということであり、生活水準が向上したということにもなろう。 そうであれば、都会に出ずにずっと田舎に住んでもいいかな、と思う人がでてくるかもしれない。そしてまた、都会から田舎に移り住もうという人が増えてくるかもしれない。
 

2016年2月26日金曜日

ショッピング・ステーション

 「EUでは、、、」という言い方と、「ヨーロッパでは、、、」という言い方と、適当に使ったりしているが、むろん厳密には区別しなくてはいけないであろう。今回、久しぶりに訪れたスイスはヨーロッパに位置するが、EUには加盟していない。とはいえ、他のEU加盟のヨーロッパ諸国にみられると同様の都市や農村の変容があり、都市計画や地域計画において同様の方向性を有しているように思えた。(逆にEUに加盟していないスイスならでは、という特色にどんなものがあるだろう?)


  今回、スイスでは、チューリッヒ空港駅からベルン駅に降り立ち、ベルン駅からインスブルック駅に行く途中で、チューリッヒ駅で乗り換えをした。ベルン駅もチューリッヒ駅もとてもきれいに改修されており、同時に、駅構内に、それぞれ地下部分(ベルンでは駅ビルの2階、3階にも)に、多くの店舗が設けられていた。このように駅に多くの店舗が、まるでショッピング・センターのように配置されるのは、ドイツやオーストリアなど他のヨーロッパ諸国でもみられることである。


ベルン駅地下。中央は、中世都市の遺構。

遺構を活かしたカフェテリア。
チューリッヒ駅コンコース。この地下が下の写真。

チューリッヒ駅の地下。まるで地下商店街のよう。

 1992年に初めて旧東独のライプチッヒを訪れた時に、中欧最大とうたわれたライプチッヒ中央駅は、薄汚れていて改修工事の真っ最中であった。ところが、その後、再訪した際には、見違えるように駅はきれいになり、加えて、駅舎の地下2階、3階部分が、多くの店が並ぶモールになっていた。同じように、駅を改修して店舗をおくことは、その後、ドイツのあちこちの駅でみられたことである。

 日本でも、たとえばJR東日本がecuteと称して、駅ナカの商店街をつくろうとしているが、同じようなことが日本に先行してヨーロッパでもなされてきたといえる。 背景にあるのは、ひとつには店舗の営業日の規制である。近年、ずいぶんと規制が緩和されてきたとはいえ、日曜祝日の営業は、多くの国で規制されており、できたとしても年間何日とか定められている。ただし、例外があって、駅や空港、あるいはガソリンスタンドは、日曜祝日でも営業が認められてきた。旅行者、移動する人々の便宜を図るためである。したがって、お店があったとしても、サンドイッチや飲み物を売る店があったり、スーパーがあったとしても、規模も小さく品揃えも少なく、必要最小限の需要を満たすだけのものであった。ところが、上述のような駅の改修によって、街の商店街に並ぶのと同じようなお店が立地するようになってきたのである。スーパーにしても、本格的な品揃えの床面積の大きなものがみられるようになった。日曜日、街の商店街のお店はどれも閉まっている、しかし、駅の中のお店は開いている、しかも、街の中の店と変わらない、となれば、駅にお客さんはやってくることになる。駅におけるこのような商業機能の集積は、店舗の営業規制の網をくぐり抜けるように進行してきたともいえよう。


インスブルック駅の地下。右手に本格的なスーパー。週末はレジに列ができる。奥は駐車場。ここでも鉄道と自動車の接続が図られている。

  駅は今や、その町において主要な商業集積地のひとつとなりつつある。そして、交通のノード、結節点として駅の機能強化が図られているともいえる。「ショッピング・ステーション」という表題はミスではない。駅がショッピング・センターやモールのようになっている状況は、まさに、「ショッピング・ステーション」と称してよいのではないか。こうした駅への商業集積によって、消費行動が変化し、加えて、町の商業の分布なども変化するかもしれない。加えて、駅への機能の集中は商業にとどまらず、業務機能においても見られることである。これについてはまた今度。

 
最近、改修が終わったウィーン西駅。外見は昔とそんなに変わらない。向こうはオフィスビル(一部、商店)。



ウィーン西駅構内。きれいになったものだ。


地下2層がショッピング街となっている。



  
 



2015年5月30日土曜日

川崎エクスカーション(3)

 川崎駅東口では、閉店セールをやっているさいか屋の前を通り、チネチッタ通りにまずは向かう。ここは今回、楽しみにしていたところでもある。立澤(2013)によると、この通りには、1987年、シネマコンプレックス「チネチッタ」が開業する(日本初とのことだが、ほかでも日本初を主張しているところがある(Wikipedia))。そして、2002年に、映画館、ライブ・ホールに加えて、物販店や飲食店、スポーツ施設などを有する複合商業施設「ラ チッタデラ」として再スタートした。ラ チッタデラはイタリア語で小さな街、イタリアの町並みをイメージして建物の外観、石畳の通りが造られたという。歩いてみると、それっぽい雰囲気。土曜の午後ということもあり、歩く人も多く、通りに面するカフェテリア、レストランのテラス席で、談笑する姿がみられる。この地に詳しい同行の学生によると、少し前までは、閑散とした通りであったとのこと。実際、西口のラゾーナの開店などの影響があるようである。確かに借り物の街並みであり、景観のイミテーションである。川崎という土地に根ざしたものでもなく、企業によって造り出されたものである。某巨大テーマパークもしかりである。だが、そこには、イミテーションと知りつつ、あえてその中につかの間、入り込んで楽しむ成熟した消費者がいる。街中の商店街もまた、テーマパークのように、一時の夢の中に誘い込むように仕掛けなくてはいけないのではないか。

 この複合施設ラ チッタデラが位置するチネチッタ通りの前後、そして横町にも、クラフトビールを飲ませる店など、小洒落た飲食店ができている。旧来の商店、飲食店もあるにはあるが、周辺への「イタリアの小さな街」というテーマの波及がみられ、通り全体、そしてこの地区一帯で、いわゆるジェントリフィケーションが進展しているようにみえる。川崎小川町バルとして、イベントを開催、プロモーションもしており、これには行ってみたい、と思う(http://lacittadella.co.jp/ogawachobar_map/#stacktitle1)。さて、チネッチッタ通りから横丁に入って、ラ チッタデラの運営会社チッタグループの歴史を紹介する歴史ギャラリーをみつけ、のぞいてみる。この会社は、1922(大正11)年に、日暮里で映画館の経営を始め、1936(昭和11)年には川崎で、そしてその後も各地で映画館を開設した。昭和30年代のこの地区の地図が展示されていたが、川崎映画劇場、川崎スカラ座、川崎名画座、川崎大映、川崎東映、川崎日活など多くの映画館が立地していた。加えて、スケートリンクなどをもつスポーツセンターやボーリングセンターがあり、バーや喫茶店もある。川崎駅前にあって、この地区が娯楽の場であり、それが今日まで、かたち(景観)を変えて持続しているともいえる。一緒に見学していた学生らに、「誰か、ここをテーマに卒論を書いてみたら?」

  チネチッタ通りを後に、銀柳街へ。某学生は、行くのが怖いという。彼にとっては、治安の悪い場所であり、近づきたくないところであるらしい。土曜の真っ昼間、そんなことはないだろうと無理矢理連れて行く。案の定、アーケードのあるしごく普通の商店街。「普通」と言っても普通ではないかもしれない。駅前のアーケードのある商店街であるからには、ある意味、その街の中心商業地であっただろう。しかし、今、目前にしている商店街は、どこにでも見かけるチェーンの飲食店やドラッグストアやカラオケ店、、、。地場の老舗の物販店などはみられない。それなりに歩く人で賑わっており、シャッター通りにはなってはいないが、こうした状況は、商店街の衰退を示しているともみてとれる。ドイツの中心商業地でもみられるように、金太郎飴的な同じような店舗構成の商店街が各地にできているのではないだろうか。銀柳街から脇道に入ると、歓楽街、昼間から営業している店もある。けっこうな規模であり、この機能の集積は大きい。

 やがて我々は旧東海道にでる。ビルが建ち並び、すでに宿場町の面影はない。駅周辺との競合から商業の立地も乏しく、マンションの建設が進んで居住機能の強化が進む。街道に沿って間口が狭く奥行きが長い細長いマンションが目立つ。宿場町の地割りが今日のマンションの形態を規定しているわけである。街道沿いに沿って東京方向に歩くと、都市銀行の川崎支店、川崎信用金庫の本店をみる。これらの存在は、かつて旧東海道沿いが、街の「中心」であったことを物語ってくれる。川崎信用金庫の広場では、女性ボーカルが歌う。川崎宿の中でもこのあたりはいさご通りといい、月に一度、若いミュージシャンによる無料野外コンサート「いさご通り街角ミュージック」を開催しているようである(http://ameblo.jp/isagomusic/)。あまり観客も多くなく、街づくり、街おこしとして効果のあるイベントともみえなかったが、我々の訪れた週末は、162回、163回にあたり、かなり長く継続しており、それなりに定着しているイベントといえる。音楽を通したまちづくりといえば、仙台の定禅寺ストリートジャズフェスティバルが有名である。 メジャーなミュージシャンを呼んできて、人を多く集めればよい、というわけでもないだろう。地元の人々が、地元の若い音楽家の声、音に耳を傾ける、、、それはそれでよいかもしれない。東海道かわさき宿交流館で展示をみて京急川崎駅へ。

 
 
 

2015年5月26日火曜日

川崎エクスカーション(2)

   再び南武線にて、川崎方向へ。右手にみえる渡り廊下で結ばれた高層ビル2棟はNEC多摩川ルネッサンスシティ。ここもまた研究開発拠点である。鹿島田駅前にもまた、高層マンションが数棟。武蔵小杉の開発とそれによる価値の上昇が、周辺地域に及んでいると言うことではないか、と言うと、「横須賀線の新川崎駅が近いですからね」と返す学生。こういう切り返しはうれしい。

 川崎駅の東西を結ぶコンコースは、待ち合わせの人、行き交う人でごった返している。まず西口のラゾーナ川崎プラザへ向かう。2006年に、東芝の工場跡地にオープンしたこのショッピングセンターは、約300店舗を有し、売り上げ日本一(約700億円、2011年)のショッピングセンターであるという(立澤芳男 2013. 立澤芳男の商業施設見聞記|第2 ラゾーナ川崎プラザ.  ハイライフ研究所. http://www.hilife.or.jp/wordpress/?p=7481)。「売り上げ日本一」に学生らは驚く。なぜ、これほどの売り上げを誇るのだろうか、と問う。元来、東京近郊地域は、人口に比して商業施設は少なかった。東京のもつ商業機能に依存し、顧客が東京へ流出していたわけである。商業施設をそこにつくれば、顧客はいる。一方で、近郊に立地していた工場が、より外縁部へ、あるいは海外へ移転することで、商業施設のための用地が生み出された。ここラゾーナ川崎プラザと同様、かつての工場用地を転換して商業施設とする例はここそこにみられる(埼玉県南部にも多い)。ラゾーナの場合は、立澤(2013)によると、商圏は地元、川崎区、幸区にとどまらず、南武線沿線、そして、大田区や品川区にまで広がっているという。東京へ消費者が流出していた状況から、東京から流入するような逆の流動が生まれているわけである。

 工場用地の転換は、商業施設へばかりではない。このラゾーナの東に隣接して、高層マンションが建てられているが、これも東芝の跡地であり、ショッピングセンターと併せて開発されたものである。さらにその東のオフィスビル「ソリッドスクエア」は明治製菓の工場跡地に建設された。生産の拠点である工場が、研究開発拠点へ、商業・業務施設へ、そしてまた、住居へと転換する一方、小川(2003)によると、そのほか、学校に転換されたものも多いという。

 ラゾーナに隣接する東芝未来科学館を訪ねる。 東芝と川崎との関わりについてなんらかの情報が得られるかと思っていたが、それについてはほとんどない。他の工場と同様、より広い敷地を求めて、東京から外方へ、ここ川崎に進出したと言うことか。原発までも造る東芝は、重電メーカーというイメージをもつが、日本初の電気洗濯機、電気冷蔵庫、自動電気釜を造るなど、由緒ある家電メーカーでもあることを、展示をみて知る。世界初のラップトップPCも展示されている。ちなみに、私が初めて買ったノートPCは、東芝製ダイナブックであった。dynabookJ-3000SS、価格は19万8千円、当時のF1レーサー鈴木亜久里がキャラクターに用いられてたことを覚えている。実は今また、ダイナブックを使っている。dynabook satellite T954、ハードディスクもなく画面もモノクロの初代ダイナブックとは隔世の感がある。

 老若男女で賑わうラゾーナのフードコートにて昼食後、川崎駅東口へと移動する。日本の駅には表と裏がある。多くの場合、旧街道に沿って鉄道が敷設されてきた。 そして、駅の出入り口が、旧街道側に設けられることで、駅前から旧街道にかけて商業の集積をみる。一方、駅の反対側は、駅へのアクセスも悪く、開発されないままか、倉庫や工場が、あるいは住宅が立地する。やがて、この裏側にも駅の出入り口が開設されて、開発が進展することになる。駅への近接性といった点では、表側とは遜色はないので急速に開発が進むことになる。川崎の場合、西口ラゾーナ側が裏で、東口、旧東海道側が表といえる。川崎の場合、加えて、東口には、京急が通り、京急川崎駅もある。川崎駅東口前には、さいか屋や川崎ルフロン、川崎モアーズ、DICEなどといった大型商業施設が位置する。立澤(2013)によると、東口の大型商業施設としては、1951年の小美屋デパート開店が最初で、1956年にさいか屋ができる。1996年に小美屋デパートが閉店し、跡地がDICEとなった。そして、さいか屋は、この日、閉店セールをやっており5月いっぱいをもって店をたたむという。また、1988年に西武と丸井を核としてできた川崎ルフロンから、2003年に西武が撤退している。このように旧来の百貨店が次々と撤退してきてはいるが、その跡地がまた別の様態のショッピングビルとなるのは、東京近郊ならではのことではないだろうか。

 

 
 

 


 

 

2015年4月29日水曜日

街全体がアウトレットモール

 調査実習の授業の中で、学生にテーマを発表してもらう。一人の学生は、中心商業地についてやりたいという。中心商業地と言えば「衰退」という話ばかりにどうしてもなってしまう。常々、空き商店だらけの中心商店街を、モール運営会社が借り切って、空き商店にテナントをいれたらよいと思っていた。わざわざ田んぼの真ん中に、巨大な建物をつくることはない。街にとっても会社にとっても理にかなう。と、もう昨年になるが、ドイツの新聞サイトを眺めていたら、ドイツでなんとこれを実現する街があるというではないか!考えることはどこも同じである。

その街の名はBad Münstereifel。ボンの南西30kmほどに位置する人口6千人ほどの街である。アイフェルの山並みに囲まれた中世都市で、中心部にはFachwerk木骨組造りが並び、保養地としても知られる。この中心部の空き店舗を利用して、 2014年8月にアウトレット・モールがオープンした。
次のホームページは、このモールのものである。一見、普通のモールのようにみえるが、実は屋外の既存の街がモールである。

http://www.cityoutletbadmuenstereifel.com/

このホームページに掲載されている街(=アウトレット・モール)の案内図である。

(http://www.cityoutletbadmuenstereifel.com/besuch-planen/centerplan/)


 図中のオレンジがモールのテナントであり、30店舗、Bonita、McGregor、Puma、TomTailorなどのブランドが並ぶ。新聞報道によると、オープン以来、盛況、とりわけ日曜日は大混雑とのこと。日本にも参考になる面白い試みであろう。

ここで、面白い(といっては失礼だが)問題が持ち上がっている。ドイツでは、商店の営業時間は法律「閉店法」で厳格に定められている。かつてからみると、ずいぶんと緩和されてきて、それまでは認められなかった平日18時30分以降や土曜の午後にも回数に制限があるが、営業が認められてきた(州によって異なる)。日曜も営業は原則禁止ではあるが、年に何回かは許可される。屋内型アウトレットモールは、ドイツでも今やあちこちにあって、モールによっては、日曜営業が年間16日間認められているという。このモールCityOutlet Bad Münstereifelは、年間40日の日曜営業を計画、許可を求めたところ、管轄のケルン郡当局は、従来の規定の4日間しか認めなかったという。モールの運営側は、アウトレットモールとして申請しているのに対して、行政当局は、街の商店街としてみているということであろう。