年が明けていつの間にやら学期末。日本の暦と大学の学期には齟齬がある、と常々思っている。4月に新学期が始まり、調子に乗ってきたところで、ゴールデンウィークがやってくる。五月病とやらがいわれるが、休みが入ることで緊張が解けることもあろう。後期も後期で、年末年始でのんびりした後は、なんとなくオマケのような感じとなる。
さて、再び落語である。相変わらず、通勤の際に聴いている。と、前回に指摘した笑いのツボにもう一つ付け加えたくなった。それは「逆転」である。弱いものが強く、逆に強いものが弱くなる主客逆転が笑いを誘う。「らくだ」で、恐い兄貴分に指図されていた屑屋が、お酒を飲むうちに、兄貴分に対して大口を叩くようになる。「初天神」では、ものを買ってくれと駄々をこねる息子に手を焼く父親が、息子に買ってやったタコ揚げに本人が子どものように夢中になってしまって、息子に呆れ果てられる。立場の入れ換わりがここにある。また、現実だと思っていたことが夢であったり(いわゆる夢落ち、たとえば「夢金」)、夢だったと思っていたら現実であったり(「芝浜」)、これもまた同種のものであろう。
さて、落語は、道徳、倫理もまた伝えてきたと述べた。 合わせて、教育、伝承の役割も果たしてきたのではないだろうか。ご隠居に熊さんが、問いかけて、ご隠居が応える。それに対して、熊さんはまた頓珍漢な解釈をして応える。これがおもしろいわけだが、こうしたやり取りを通して、弥生は3月であることなど、言葉の意味を教授することになっているわけである。こうした語句に加えて、英雄譚、、合戦、和歌、川柳など、日本史や詩歌が落語の話の中にちりばめられることで、知らず知らずのうちにそれらが身についていくのかもしれない。落語初心者の勝手な解釈であり、落語家はそんなことはない、と否定されるかもしれない。が、意図しない効果というものはあるだろう。
先日、本屋の漫画コーナーに、荒川弘の「百姓貴族(4)」を探しに行ったときに、「落語心中」という漫画を目にした。こんな漫画があるのだ、と第1巻を買う。最初にでてくる落語が「死神」。第2巻以降も買ってしまうかも、、、
2016年2月28日日曜日
2015年10月9日金曜日
落語
我々の世代の若かりし頃、ドライブと言えば、ユーミンとか稲垣とかが定番(人によってはオフコース。オフコースなんていい年をしてめめしい、と思っていたが、いい年をしてあんな風にジタバタするのが人生なのだと、いい年になって思う。)。そして今、いい年になって車に乗って聴いているのが落語である。
落語と言えばまず笑い、滑稽話であろう。かつて読んだ井上ひさしの「ブラウン監獄の四季」。彼が、NHKの仕事をしていたころのエピソードを綴ったエッセーで、クスッと笑ってしまう、とても面白い本である。この本の中に、今で言う「お笑い」の台本を作る中で、どうしたら笑ってもらえるか悶々と考えたという話がある。それによると、笑いを誘うひとつに「なぞりと失敗」があるという。ある人が何かをやる。それをまねして他の誰かが同じことをやってみるが、そこで失敗する、、、ここに笑いが生まれる。ドリフターズを例に出していて、ドリフのメンバーが同じことを次々やっていく中で、一人が違うことをしたり、失敗したりすることで、どっと沸くことになる。
落語の笑いの多くも実はこれである。ご隠居に教えられたように熊さんがやって失敗する、という話。よく知られた「時そば」がまさにこれに当たる。「お化け長屋」は、同じ物言いに対して、異なる人が異なる反応をする話であり、同じ質の笑いである。
加えて、「コミュニケーション・ギャップ 」。「百川」や「金明竹」などがこれに当たる。方言を十分理解できずに違う意味で捉えて、間違いが起きるわけである。漫才においても、ぼけとつっこみがつくる同じようなコミュニケーションのズレが笑いを誘うといえる。
「なぞりと失敗」であれ「コミュニケーション・ギャップ」であれ、調和的に整然と進行するはずの行動や会話において生じるズレが笑いを誘う。このことは洋の東西、時代を問わず同じではなかろうか。落語は、普遍的な笑いを提供してきたといえるだろう。したがって、落語を、たとえば英語に訳したとして、英語圏の人々に笑いをもたらすことができる。(はて現在の日本のテレビの「お笑い」はそんな普遍性を有しているだろうか?)
一方で、人情ものの落語はまた、人の生き方の手本、道徳、倫理もまた伝えてきたといえよう。「井戸の茶碗」のように正直、実直であることや、「芝浜」にみられるまじめに働くことの大切さ、「文七元結」における自分の身を削っての人助け、、、江戸時代に成立したとされる落語は、当時において良しとされる生き様、価値観を反映し、かつそれを人々に伝え広めてきたともいえる。今日においても落語の人情話を聞いて共感できるのは、当時の人々と同様の価値観を共有しているからであろう。そしてそれは、日本固有のものであろうか、あるいは普遍的なものであろうか?
明日は出勤日。さて、何を聴いて参ろうか、、、
落語と言えばまず笑い、滑稽話であろう。かつて読んだ井上ひさしの「ブラウン監獄の四季」。彼が、NHKの仕事をしていたころのエピソードを綴ったエッセーで、クスッと笑ってしまう、とても面白い本である。この本の中に、今で言う「お笑い」の台本を作る中で、どうしたら笑ってもらえるか悶々と考えたという話がある。それによると、笑いを誘うひとつに「なぞりと失敗」があるという。ある人が何かをやる。それをまねして他の誰かが同じことをやってみるが、そこで失敗する、、、ここに笑いが生まれる。ドリフターズを例に出していて、ドリフのメンバーが同じことを次々やっていく中で、一人が違うことをしたり、失敗したりすることで、どっと沸くことになる。
落語の笑いの多くも実はこれである。ご隠居に教えられたように熊さんがやって失敗する、という話。よく知られた「時そば」がまさにこれに当たる。「お化け長屋」は、同じ物言いに対して、異なる人が異なる反応をする話であり、同じ質の笑いである。
加えて、「コミュニケーション・ギャップ 」。「百川」や「金明竹」などがこれに当たる。方言を十分理解できずに違う意味で捉えて、間違いが起きるわけである。漫才においても、ぼけとつっこみがつくる同じようなコミュニケーションのズレが笑いを誘うといえる。
「なぞりと失敗」であれ「コミュニケーション・ギャップ」であれ、調和的に整然と進行するはずの行動や会話において生じるズレが笑いを誘う。このことは洋の東西、時代を問わず同じではなかろうか。落語は、普遍的な笑いを提供してきたといえるだろう。したがって、落語を、たとえば英語に訳したとして、英語圏の人々に笑いをもたらすことができる。(はて現在の日本のテレビの「お笑い」はそんな普遍性を有しているだろうか?)
一方で、人情ものの落語はまた、人の生き方の手本、道徳、倫理もまた伝えてきたといえよう。「井戸の茶碗」のように正直、実直であることや、「芝浜」にみられるまじめに働くことの大切さ、「文七元結」における自分の身を削っての人助け、、、江戸時代に成立したとされる落語は、当時において良しとされる生き様、価値観を反映し、かつそれを人々に伝え広めてきたともいえる。今日においても落語の人情話を聞いて共感できるのは、当時の人々と同様の価値観を共有しているからであろう。そしてそれは、日本固有のものであろうか、あるいは普遍的なものであろうか?
明日は出勤日。さて、何を聴いて参ろうか、、、
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