2016年5月20日金曜日

チェーン店度:ドイツの商店街はどこも同じ?

 折に触れてドイツの街を訪れていると、その変化に気づかされる。あそこにあった模型を売るお店がなくなったり、伝統的な什器を売るお店が、モダンなデザインの食器を売るお店に変わったり、、、地場のお店がどんどん消え去り、代わって、ベネトンやらH&Mといったブランド店が、スタバやハードロックカフェといった飲食店が増えてくる。10万人規模の都市であれば、街並み、そして建築物は異なっていても、商店街に並ぶお店は金太郎飴のようにどこも同じ、という状況になりつつあるのではないか、、、
 昨年度、こうした問題意識から、M君が「ドイツ・ハイデルベルグにおける中心商業地の変容」という卒業論文を書いた。ドイツの各都市におけるチェーン店の立地状況を都市の人口規模毎に把握した上で、ハイデルベルクの中心商業地であるHauptstraßeの店舗構成をチェーン店の進出に注目し、現地調査によって明らかにしようとした力作である。
 チェーン店の進出は、ハイデルベルクにとどまらない。こうしたチェーン店の進出の度合いを、ドイツでは、Filialisierungsgrad「チェーン店度」という指標で示すことが行われている。Der Handel商業という雑誌のネット版(2011.05.18 https://www.derhandel.de/news/unternehmen/pages/Filialisten-Filialisten-draengen-in-die-Innenstaedte-7444.html)に、チェーン店がますます中心部に進出していると報じられている。
 以下が、この記事に掲載されているドイツ各主要都市におけるチェーン店度である。軒並み5割を越え、ドルトムントが74.6%と最も高い値を示しており、4分の3がもはやチェーン店となっている。この記事によると、2006年の時点からもっとも大きな変化を示したのがフランクフルトであり、2006年の50.9%から16.3ポイント増えている。フランクフルトでは、この間、ZARAやMiuMiu(Pradaの別ブランド)といったブランド店がドイツで初めて進出したという。このフランクフルトを含め、国際的なチェーン店の比率が高いのは、デュッセルドルフ、ベルリン、ハンブルクといった商業の中心としてよく知られる大都市である。


2008年の人口 国際的チェーン店 ドイツのチェーン店 地域のチェーン店 地元の店 チェーン店度2010年
Berlin 3,431,675 51,9% 13,4% 4,2% 30,5% 69,5%
Hamburg 1,772,100 47,3% 15,3% 3,4% 34,0% 66,0%
München 1,326,807 33,9% 12,7% 7,1% 46,3% 53,7%
Köln 995,420 41,4% 12,2% 6,3% 40,1% 59,9%
Frankfurt/Main 664,838 47,0% 17,7% 2,6% 32,7% 67,2%
Stuttgart 600,068 38,6% 18,0% 3,3% 40,1% 59,8%
Dortmund 584,412 43,5% 29,0% 2,2% 25,3% 74,6%
Düsseldorf 584,217 53,3% 13,1% 2,6% 31,0% 69,0%
Essen 579,759 36,1% 29,3% 2,7% 31,9% 68,0%
Bremen 547,360 41,3% 27,3% 3,5% 27,9% 72,0%
Hannover 519,619 36,2% 22,7% 5,4% 35,7% 64,3%
Leipzig 515,469 31,8% 20,1% 2,8% 45,3% 54,7%
Dresden 512,234 45,7% 21,7% 1,1% 31,5% 68,5%
Nürnberg 503,638 46,0% 20,9% 3,4% 29,7% 70,3%
Duisburg 494,048 28,1% 20,2% 7,0% 44,7% 55,3%

  興味深いことは、ミュンヘンにおいて、チェーン店度が53.7%と低く、かつ国際的チェーン店の比率も低いことである。この記事によると、ミュンヘンは特殊なケースという。ミュンヘンの旧市街は、多様な商店が立地するだけの十分なスペースがあるとともに、それらに対する高いニーズがある。したがって、国際的なチェーン店だけではなく、伝統的な家族経営の商店も成立しうるとのことである。
 はて日本において、ドイツと同じように「チェーン店度」で各都市を評価してみたら、どうだろうか?
  
 

2016年5月2日月曜日

社会主義都市、その後(1):クラクフ

 1990年代、ベルリンの壁の崩壊、そしてドイツ統一を追って、東ヨーロッパの旧社会主義国が政治経済の改革を推し進めていった。この改革を通して、第2次大戦後の社会主義時代に形成された都市や農村の特色がどのように変容Transformationしてきたのか、かっこうの研究テーマを与えてくれた。私も、プラハの街(市場経済化の進展に伴うプラハの都市構造の変化.地域研究 44:25-38.)や、ハンガリー南部の農村ハンガリー南部農村における農業生産協同組合の再編と個人農の動向.小林浩二・大関泰宏編著『拡大EUとニューリージョン』原書房,222-235.)でそうした変化を垣間見る機会をえた。大きな変革の時期を経た現在、 旧社会主義国の都市や農村は、あれからどう変わったのか、そして現在、どのような状況にあるのか、興味深い。

 2014年の夏、ポーランドのクラクフで開催された国際地理学会に参加した。クラクフはポーランド南部に位置し、1596年にワルシャワへ都が移されるまで、ポーランド王国の都が置かれた古都である。現在の人口は約76万、ワルシャワに次ぐポーランド第2位の都市であり、かつ科学技術の中心ともなっている(ちなみに、アルプス以北のヨーロッパでプラハに続いて2番目に大学が設置された街でもある。ドイツ語版Wiki)。そして、その旧市街は世界遺産にも登録されている。ちなみに、この街を最初に訪れたのは1996年のことであった。

旧市街の広場。向こうの建物が織物会館。

 2014年、クラクフの旧市街におけるメイン・ストリートや広場は多くの観光客で賑わっていた。メイン・ストリートには商店が並ぶが、それらの多くは、観光客向けの土産物屋か、ヨーロッパや世界に展開するチェーン店の支店である。ドイツやフランスなど、ヨーロッパ西部の古い町であれば減ったとはいえ存在する、入るのがためらわれるような、地場資本の重厚な衣料品店や装飾店などはない。こういっては失礼だが、旧市街の風格のある町並みに比して、そこにあるお店はどこにでもある軽いものである。経済の停滞していた社会主義時代において、いわゆる中産階級、あるいは富裕層が形成されず、彼ら向けの商店も欠落していた中で、改革以降、観光客の増大に対応して、観光客を主として相手にするような商店が中心部に進出してきたといえよう。

クラクフのメイン・ストリート
おなじみマクドナルド

ドイツ資本のドラッグストア。ドイツではどの街にもある。
旧市街にチェーン店をはじめとして商店が立地してきたとはいえ、その量も質も思ったほどではない。一方で、旧市街の外で、大型のショッピングセンターが開設されている。下の一枚目の写真は、旧市街の北東部に位置するクラクフ駅に隣接したショッピングセンターである。C&Aやカルフールなどいくつかのデパートやスーパー、SATURNといった電気製品の店に加えて、多くの小売店が入っている。そこでは旧市街に見られないような世界レベルの有名ブランドが軒を構える。また、郊外においても2枚目の写真のように巨大なショッピングセンターがいくつもある。衣料品にせよ装飾品にせよ、値の張る質の高いものは、旧市街ではなく、こうしたショッピングセンターで売買されているのではないか。この点において、ヨーロッパ西部の都市とは異なろう。

クラクフ中央駅。巨大なショッピング・センターを併設。手前が旧市街方向。駅の向こう側には、バス・ターミナルが設けられている。こうしたプランは西ヨーロッパと同じ。
旧市街から東方、Nowa Huta(「新製鉄所」という意味の街の名。この街に関しては次回)に向かう幹線道路沿いのショッピングセンター。この道路に沿って、他にもショッピングセンターがあり、また、オフィスビルの立地もみられる。

 もう一つ、ヨーロッパ西部の都市とは依然として異なる点があることに気がついた。それは、ある日、一人で夕食をとりにホテルから街に繰り出したときのことである。
  クラクフの旧市街を取り囲んでいた都市壁の一部が残り、今日、その外周を緑地帯と環状道路が走る。私は、この環状道路のすぐ外側に位置する米系チェーン・ホテルに部屋をとっていた(なぜこのホテルか?「ホテルの選択」についてはまた後日)。旧市街へ向かえば、観光客向けのレストランや飲み屋がある。が、それなりに値も張るし、一人ではつまらない。そこで、反対方向、新市街の方向へ歩いて行ってみた。地元の人が使う気軽なレストランを探してのことである。通常であれば(西ヨーロッパであれば!)、新しく形成された市街地の交通の結節点、すなわち、大きな交差点があって、バスや路面電車の乗り換え地点となっているようなところでは、スーパーやちょっとした店舗があって、レストランも数軒ある、はずである。ところが、周囲は住宅地であり、近隣のニーズに合わせて立地しているはずのものがなく、そうしたいわば小中心の形成は弱く、レストランもない。

  たまたま、訪れた旧市街から東の方向に店がなかっただけのことかもしれない。旧市街やショッピングセンターのレストランへ皆でかけるのかもしれない。が、居住者の所得水準からくる消費性向によるものとも考えられる。西ヨーロッパであれば、都心部に近い地区では、それなりに豊かな人々が居住しており、彼ら向けのレストランが成立しうる。しかし、クラクフでは、失礼な物言いかもしれないが、そうした層が同じような場所に住んでいない、あるいはそうした層がまだ厚くない、ともみてとれる。

 都市内部において、どこにどんな社会階層の人々が居住しているのか、そしてそれを背景として、どこにどんな商業・サービスの立地がみられるのか、「都市構造」とか都市の「商業構造」や「社会構造」(「構造」という言葉が地理学では安易に使われすぎている、という気がする。地理学で用いられる「構造」は二重の意味がある!)とか呼ばれるものが西ヨーロッパとは異なると思われるのである。
 



2016年4月22日金曜日

ドイツ周辺の地震

 熊本の地震が一向に終息しない。亡くなられた方々にお悔やみ申し上げるとともに、被災され、避難を余儀なくされている方々にお見舞いを申し上げます。

 熊本近くに住む人によると、ずっと揺れが続くので、船酔いをしているかのような気分の悪さだという。安定した大地があってはじめて安寧もあろう。この点、ヨーロッパは安定しており地震もないといわれる。が、実は時折、地震が起こる。ドイツ連邦経済・エネルギー省のホームページ(http://www.bgr.bund.de/DE/Themen/Erdbeben-Gefaehrdungsanalysen/Seismologie/Seismologie/Erdbebenauswertung/Erdbebenkataloge/historische_Kataloge/BILD_germany_epic.html;jsessionid=3015E760CD05526E1332675790016C33.1_cid331?nn=1544984)に、西暦800年から2008年にかけて、ドイツとその周辺において発生した地震を強度別に地図に示すとともに(左図)、被害をもたらした地震を地図化している(右図)。この図をみるとケルンあたりからライン川に沿ってバーゼル周辺まで、シュトットガルト南のシュヴェービッシェ・アルプ周辺、ライプチッヒ南のゲラ周辺あたりで地震の発生が多い。合わせて、バーゼルから東へ、インスブルックを経てウィーンに至る帯状の地域でも地震がみられる。プレートテクトニクス理論によると、アフリカプレートとユーラシアプレートの境界が地中海を東西に走り、その北側にアルプスがやはり東西に延びる。アフリカプレートがユーラシアプレートに沈み込む動きからアルプスが形成されたのか、アフリカプレートとユーラシアプレートが衝突してアルプスが形成されたのか、よくわからない!が、いずれにしても、この図の南、イタリアでは地震が比較的多く、この図でもアルプスに沿って地震帯が存在する。アルプスの北においても、ライン地溝帯など構造線(断層帯)で地震が発生するようである。

 この地図では、地震の強度が示されているが、日本の震度とは異なり、ヨーロッパ地震強度EMS-92が用いられている。EMS-92は、人間の感じ方と建物の被害の状況に応じて、強度をⅠからⅫまで12段階に分けている。Ⅰは感じられない、Ⅴは、「強い」で、建物が揺れて、寝ている場合に起こされる。Ⅻは、ほとんどの建物が崩壊する壊滅的状況となる。右図は、強度Ⅵ(建物に軽い被害)以上の地震が示されているが、ケルンの西、フランクフルトからバーゼルにかけてのライン川流域、そしてウィーンやインスブルック周辺でもそれなりに地震の被害が過去にあったことがみてとれる。


  こうした過去における地震の発生状況をもとにして、ドイツ、オーストリア、スイスにおける地震の危険マップが作成されている( http://www.gfz-potsdam.de/sektion/erdbebengefaehrdung-und-spannungsfeld/projekte/bisherige-projekte/seismische-gefaehrdungsabschaetzung/d-a-ch/)。この図が掲載されているサイトは、ポツダムにあるドイツ地球研究センターのものだが、原図は、Grünthal, G., Mayer-Rosa, D., Lenhardt, W. (1998) Abschätzung der Erdbebengefährdung für die D-A-CH-Staaten - Deutschland, Österreich, Schweiz. Bautechnik 75(10), 753-767.にあり、作成方法が示されている。この地震危険マップには、先のⅠからⅫまでの地震強度に基づき、どこでどの程度の規模の地震が起きうるか示されている。ちなみに、この地図における数値は、50年間における90%の非超過確率で示されており、50年の間にこの値を越える地震が起きる確率が10%であるということである(私の理解が正しければ)。危険度が高いのは、当然だが、先に示したこれまで地震が生じてきたところである。

 オーストリア、チロルのインスブルックでもたびたび地震に見舞われてきた。したがって、下の写真に見られるように、 建物の柱の下部を前にせり出して補強をするなど、地震に備えてきた。日本で、いつどこで地震が起こってもおかしくないといえるが、ヨーロッパでも同じかもしれない、、、

インスブルックの旧市街。左の建物の隅の柱、右の向こう二番目の建物の柱、それぞれが通りにせり出している。


2016年4月13日水曜日

ライプニッツ地誌研究所の「今月の地図」(1)

 ライブニッツ地誌研究所IfLは、ライプチッヒにあるドイツで唯一の大学外の地理学研究機関である。現在、75名が従事し、年間予算は430万ユーロにのぼる。

 この研究所の起源は1896年にまで遡る。当初は、ライプチッヒ民俗博物館が、地質学者Alphons Stübel のコレクションを展示していたが、1907年に地誌学博物館として独立し、1930年代以降は研究にも従事した。第2次大戦後、1950年から、 Edgar Lehmannの指導の下で、ドイツ地誌研究所として旧東ドイツの中心的な地理学研究機関となる。1976年以降、科学アカデミーの中における、地理学・ 地生態学研究所IGGとなっていく。

 IGGの解体後、1992年に現在のかたちの地誌学研究所が設立される。ちょうどその年、この研究所を始めて訪れた時には、まだライプチッヒ博物館の中にあった。書庫も見せてもらったが、それまで見たこともない古書、地図類がところせましと並んでいた。1996年にライプチッヒ郊外の現在の場所に研究所は移転した。2003年にLeibniz-Institut für Länderkundeと改称する。ライプニッツLeibnizは、かの著名な数学者にして哲学者、研究所の位置するライプチッヒの出身である。

 この研究所は、今日、ドイツにおける地誌学研究の中心として、Beiträge zur Regionalen Geographie、Europa Regionalなどをはじめとする各種刊行物を発行している。

  さて、この地誌研究所のホームページhttp://www.ifl-leipzig.de/en.htmlの右に、「今月の地図」として、特定のトピックに関する主題図が掲載されており、定期的に入れ替わる。現在トップにある主題図は、ドイツのワイン生産に関するものである(http://aktuell.nationalatlas.de/wein-2_03-2016-0-html/)。

 なんでもEUでは、2016年からワイン用ブドウ栽培の認可制度を変更したとのことである。これまで、ワイン用ブドウは生産過剰の状態にあり、生産面積の拡大は認められなかったが、加盟国は、年間1%までの栽培面積の拡大ができるようになった.背景には、ワインの世界市場の変化、とりわけ、ヨーロッパ以外においてワイン需要が拡大し、ヨーロッパにとって新たな輸出のチャンスが増えたことがある。

 この地図をみると、ドイツにおけるワイン生産地帯(13の原産地認定ワイン生産地域がある)は、ドイツ南西部に集中している。なかでも、ライン川とその支流(モーゼル川やマイン川など)流域が主要な生産地域で、これらを含むラインラント・プファルツ州とバーデン・ビュルッテンベルク州でドイツワイン生産の9割近くを占めている。

 ドイツと言えば白ワインである(地図の凡例のWeßer Rebsortenが白ワイン Rote Rebsortenが赤ワイン)。しかし、近年、赤ワインの生産が伸びており、赤ワインの面積比率は24.1%(1999年)から35.1%(2014年)に増加しているという。

 そしてドイツの白ワインと言えばリースリングである(白ワインの一番上の黄色)。ドイツのワイン用ブドウ品種の4分の1がリースリングであり、ここ15年間、そのシェアに大きな変化はない。そして、リースリングが卓越して生産されるのは、13の生産地域のうちモーゼルとラインガウである。一方、他の白ワイン用ブドウ品種には大きな変化があり、グラオブルグンダー(ピノ・グリ)やバイサーブルグンダー(ピノ・ブラン)が著しく増加し、一方で、ミュラー・トゥルガウやケルナーが減少している。

 赤ワインで最も生産が多いのは、シュペートブルグンダー(ピノ・ノワール、凡例の赤)であり、南部、バーデン地方で高いシェアを占めている。近年、赤ワインで生産が伸びているのは、ドルンフェルダー(凡例のオレンジ)であり、赤ワインの中で栽培面積は第2位である。ドルンフェルダーは色の濃いワインで、元来は色づけのために他のワインに混ぜていたという。しかし、今日、現代的なワインとして人気を博している。

2016年4月5日火曜日

マップ・リテラシー

 マップ・リテラシーとは、地図を読み、使いこなす能力である。今日、カーナビやネットで、地図と身近に接する機会が増えてきた。だからといって、地図を有効にかつ適切に使えているだろうか?東西南北という絶対的な座標軸がもてなくなっている、そして縮尺の概念があいまいになっている、そうした問題が生じているのではないか、と思う。

 ノース・アップ、地図は北を上にしてみる。実はこれが重要である。私が大学に入った1年目の夏、地形学のI先生の調査のお手伝いで、北海道の手塩に連れて行ってもらったことがあった。むろん、地形図をもって歩く。彼が私に言ったことは、「地図は、今みている方向に合わせてぐるぐる回すのではなく、必ず北を上にしてみなさい。地図に合わせて逆に頭の中で現実を回転させなさい」。それ以来、彼の指示は守っている。こうすることで、絶対的な座標系の中で、そしてまた、町や村という大きなスケールでも、そして日本という小さなスケールでも、今、自分がどこにいるか位置づけることができ、自分が東に向かっているのか、南に向かっているのか、認知することができる。

 さて、カーナビやスマホの地図では、向かう方向に地図が回転するようにできるし、そのように利用している人も多かろう。これはこれで認識しやすく便利だが、絶対的な座標系の中で、自分を位置づけることはできない。右に曲がる、左に曲がる、、、常に相対的な位置の認知となり、様々なスケールにおける自らの位置づけも不可能となる。現代の便利な機器は「方向音痴」を増やすことになるのではなかろうか。

  次に、縮尺、スケールの問題である。カーナビで容易に地図の拡大縮小ができるし、グーグルマップなど、ネットの地図も大きくしたり小さくしたりできる。だが、今、自分がどれほどの縮尺で地図をみているのか、そうした意識が希薄であろう。地図は現実をある特定のスケールで縮小したものである。紙の地図であれば、2万5千分の1とか5万分の1とか、一定の縮尺の地形図しかなかった。福岡の街も、札幌の街も同じ縮尺で眺めていた。一方、ネットの地図では、福岡の街をどんどん拡大してみて、再び、縮小し、日本全体の地図にして、札幌近辺に移動して、札幌の街を拡大してみてみる。画面の隅にスケール・バーが示されているとはいえ、最初に福岡をみた縮尺と、今、札幌をみている縮尺が同じかどうかわからない!固定された縮尺で二つの街をみることで可能であった街の広がりの比較も、ネットの地図では容易ではないわけである。

 加えて、同じ15インチのディスプレイで地図をみるとして、そのディスプレイの解像度によって、縮尺と情報量が異なってくる。15インチであったとしても、XGA1024x768ドットとFHD1920x1080ドットでは、同じ範囲の地図を表示した時、縮尺は異なるし、同じ縮尺で表示した時に、表示される範囲は異なってくる。そして、どちらにせよ、ディスプレイで示される地図のもつ情報量は、印刷された地図がもつそれにはとてもかなわない。電子ブックが普及しつつあるといわれるが、パソコンやタブレット、スマホのディスプレイは印刷物の地図に容易に取って代わることはできないのではないだろうか、、、





 

2016年4月2日土曜日

ショッピング・センター「ハル・イン・チロル」

 インスブルックの隣り、列車で10分ほどのイン川沿いにHall in Tirolハル・イン・チロルという街がある。人口1万3千人ほどの小さな街ではあるが、かつてチロルにおいては、現在の中心都市インスブルック以上に極めて重要な都市であった。
 このハル・イン・チロルの地名の初出は、1256年である。ハルHallはHalに由来し、塩水泉や岩塩坑を意味する(ザルツブルク近くのハルシュタットHallstadtも同じ意)。当時、塩の産出がこの地の重要な生業であり、製造された塩は、ドイツのライン地方やシュバルツバルト(黒い森)地方、そしてスイスへ移出されたという(http://www.hall-wattens.at/de/hall-tirol.html)。岩塩坑というと、塩の塊を切り出していく、というイメージをもつが、実はそうではない。塩分を多く含んだ地層から流れ出る塩水を集めて、それを煮出して塩とする(従って、塩の生産には燃料とする大量の木材が必要であった)。
 1302年には、オットー公により、ハルは、インスブルックと同等の自治権を与えられ、その後、チロル北部で最大規模の旧市街を有するようになる。その後、1477年になって、チロル南部のメランMeran(高級保養地として知られる)から硬貨鋳造所が移転する。この鋳造所は1809年に閉鎖されるが、1975年、硬貨博物館において、鋳造が再開され現在に至る。そこでは、オリンピック記念硬貨や、ハル・タラーHaller Taler500年記念硬貨などがつくられた。このタラーは、1486年にハルで初めて製造された硬貨であり、それは広くヨーロッパに流通し、Dollarすなわちドルの語源ともなった。
 このように、塩の生産、硬貨の製造で重要な街であったが、ハプスブルク家マクシミリアン1世が、インスブルックに都を置くことで、チロルの中心はインスブルックとなっていく。今日、人口12万のインスブルックに対して、その10分の1しかないハル・イン・チロル、しがない田舎町になりさがったと思いきや、どっこい生きている!
 どういうことか、下のパンフレットをみていただきたい。表紙には「ショッピング・センター・ハル旧市街」と称されている。すなわち、街全体をショッピング・センターに模しているわけである。4月29日のブログで、「街全体がアウトレット・モール」として、ドイツの一つの街をアウトレット・モール会社がモール化している例を紹介したが、ここハルでは、既存の街全体を自ら一つのショッピング・センターとしてアピールしようとしている。2枚目の裏表紙は、よくある街の鳥瞰であり、観光名所を示しているが、3枚目は、ハルの街におけるカフェ、レストランなど飲食できるお店を示している。そして4枚目は、衣料品店や日用雑貨店を示す。まさに、屋内のショッピング・モールで配布されるパンフレットではないか! 

パンフレットの表紙 http://www.haller-kaufleute.at/

裏表紙:見どころ

カフェ、バー、ホテル、レストラン

衣料品店、日用雑貨店、書店
  このパンフレットをみると、それぞれの商店が中心の通りに集中して立地しているのではなく、街中に広く分散していることがわかる。実際、下の写真のように、横町にもブティックや工芸品店、レストランがみられる。しかも、それらの多くは新しく、近年、新規に立地したと見てとれる。こうした新規立地とともに、建物の改修も進み、いわゆるジェントリフィケーションが進行していると理解できよう。
 ハルは、こぢんまりとした中世の街をさながら一つのショッピング・センターとして機能させているかのようである。中世の町並みをそぞろ歩きながらのショッピング、、、それは屋根の下のショッピングにはない魅力であり、郊外型のショッピングセンターが増えるチロルにおいても、競争力があるのかもしれない。


ハルの町並み。イン・ザルツァッハ様式の建物が並ぶ。




広場では、週末に市が開かれる。ブラスバンドの生演奏も。



横町にある改修された衣料品店。

やはり横町のイタリアン。




2016年3月28日月曜日

観光パンフにみるチロルのイメージ


 貧乏性なので、フィールドに出かけた折に、タダでもらえるモノは何でももらってきてしまう。加えて、モノを捨てられない性分で、研究室には、国内外の各地でもらったパンフレットや小冊子、地図など大量に保管されていて、足の踏み場もない状況にある。
 そんな中、かつてチロルを訪れていた際に集めたパンフレットを発掘してみた。下の写真は、今から約30年前、1987年におけるWipptalビィップタルの観光客向けの情報誌である。ビィップタルは、チロルの州都インスブルックから南へブレンナー峠に向かって伸びる谷である(ちなみにブレンナー峠の南、イタリア側もビィップタルに含まれる。タルTalはドイツ語で谷を意味するが、単に地形を表すだけではないようである)。夏期に牛を放牧する山の牧場(Almアルム)の小屋が観光客のための休憩所となっており、小屋の前で、民族衣装をまとった女性(ピンクのエプロンの人)が、客をもてなす様子が描かれている。写真右にメニューが掲げられており、「アルム牛乳」や、「シュペック(チロルの燻製肉)とパン」、「チーズとパン」などが提供されていることがみてとれる。次の白黒の写真は、この情報誌の中の記事の一部である。Navisという村の紹介であり、その写真とともに、伝統ある農家建築や風俗をもって、いかにこの村が休養にふさわしいか説明がなされる。これらから、当時は、チロルにおける「農」が、すなわち、農業に関わる人そのものが、そしてまた、農業活動によって生み出される農産物や風景が強調され、これらが観光客を惹きつける観光資源であったことが読み取れる。


  さて、次の写真は、同じビィップタルの観光情報誌の2015年夏版である。農業活動によって創り出された雄大なチロルの風景が示されてはいるが、泥臭さは陰を潜め、「農」に関わる人々ももはや描かれていない。その土地固有の文化が紹介されるよりも、マウンテンバイクやハイキングなど、どのような活動ができるのか、が強調される。ビィップタルをチロルの他の観光地の地名に置き換えても何らおかしくないような、個々の場所から切り離された「チロル」がそこにはある。こうした「チロル」は現代の観光客がイメージし、そして追い求めるものなのかもしれない、、、